農兵節
「富士の白雪ァノーエ」の文句で知られる三島農兵節の起源は比較的に新しく、その元歌は嘉永年間(1848~1854)すでに三島地方の盆踊り唄や、地唄として唄われていたとされています。 節まわしは、幕末の韮山代官江川担庵が幕府の許可を得て調練した農兵の唄に採用したものであるといわれています。
【農兵節のルーツ】
白滝公園内に建つ「富士の白雪の碑」には三島の民謡「農兵節」の元詞が刻まれています。「富士の白雪 朝日に溶て、三島女臈衆の化粧水」昭和7年(1932)三島水明会によって建立されました。書は平井源太郎です。
農兵節の起源には諸説あります。幕末、韮山代官の江川英龍(坦庵公)が三島で洋式農兵調練を行った際に、長崎伝習から帰った家臣・柏木総蔵が伝えた音律が坦庵公の耳にとまり、行進曲として唄い始められたという説、三島宿の人々が当時唄っていた田草取歌が盆踊り歌に発展し、その後尻取り歌「ノーエ節」として流行したのが始まりという説、文久2年(1862)に横浜で作られた野毛山節(ノーエ節)が三島に伝わり農兵節になったという説など諸説様々ですが、いずれにしても、大正末期頃に三島で歌われていたノーエ節を洗練し、三島民謡として全国に宣伝を始めたのが平井源太郎と矢田孝之の二人でした。
その宣伝方法は、東京・大阪などへ赴き、「農兵節」の幟を立て、源太郎は農兵指揮官の装束である韮山笠・陣羽織を着用して大・小刀を腰に差し、近在の若者達と共に農兵踊りを披露し人目を引きました。一方、昭和9年に日本コロンビアより赤坂小梅の唄でレコード化しヒットさせています。こうして「農兵節」はレコードやラジオで全国へ広まり、現在でも「三島」といえば「農兵節」といわれるほど有名になりました。