東海道三島宿
箱根八里と石畳
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「箱根八里は馬でも越すが 越すに越されぬ大井川…」
この唄が示すように、箱根越えは大井川と並ぶ東海道の二大難所でした。
この唄が示すように、箱根越えは大井川と並ぶ東海道の二大難所でした。
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慶長9年(1604)、江戸幕府が整備した「五街道」の一つ東海道の一部で、一般に箱根八里と呼ばれているのが箱根旧街道です。
箱根峠を境に小田原へ降りる道が東坂、三島へ下る道が西坂。松並木と石畳の美しい街道でした。
箱根山は幕府にとっても天然の要害であったため、関所を設け、譜代大名の小田原藩主大久保氏に守らせました。
箱根峠を境に小田原へ降りる道が東坂、三島へ下る道が西坂。松並木と石畳の美しい街道でした。
箱根山は幕府にとっても天然の要害であったため、関所を設け、譜代大名の小田原藩主大久保氏に守らせました。
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そして、小田原宿と三島宿の両方から人々を移して箱根の宿を作りました。
この箱根路は坂が多く、雨や雪、霜などによるぬかるみ道で、往来する旅人は困難を極めました。
そこで、延宝8年(1680)、幕府は1400両を投じて石畳に改修しています。
この箱根路は坂が多く、雨や雪、霜などによるぬかるみ道で、往来する旅人は困難を極めました。
そこで、延宝8年(1680)、幕府は1400両を投じて石畳に改修しています。
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その後、いくども改修工事が行われていますが、最も大きな工事は文久元年(1861)のこと皇女和宮が14代将軍家茂との婚姻のため、江戸へ下られるということで、整備されました。
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この石畳の街道は現在でも随所に残されています。