(第422号)勘兵衛が見た山中城(6)(令和5年8月1日号)

 歴史の小箱第419号「勘兵衛が見た山中城(5)の続きです。  
 報告書「山中城跡2」(1994)刊行後の発掘調査で得られた新発見データにより構成される推定を「渡辺勘兵衛武功覚書」とともに表現しました。

 山中城跡の発掘調査は、「三島市遺跡地図」にすべての位置関係が記録(図中黄色部分)されていますが、正式報告後の調査地点は山中新田集落内の個人住宅建替えに伴う調査例(図中青色部分)が多い傾向にあります。そこで検出された堀跡や土橋、予測される谷と水の流れは、極めて巧みな遺構(いこう:土地に対する加工や造成の痕跡)でした。本戦までの準備は土地に刻まれ、現在もそこかしこに埋まっています。そのため、今後検 出される遺構によってはこの説も更に変更する可能性があります。

▲調査地点と全進入ルート



 勘兵衛の記述から、戦況を分析すると、「もし、山中城の守備兵が約3倍の1万2千人で火縄銃と鉄砲玉、火薬などの物資が潤沢であったなら」山中城は難攻不落の城であったと予測します。

 その根拠は、主要な曲輪(くるわ)に入る谷は非常に狭く、豊臣方が準備した数万の兵は、一挙に攻め込むことができない地理的条件にあります。第一陣の攻撃兵は、「仕寄」(しより:城内からの攻撃を回避して身を守る溝を谷部に掘り、敵陣に近づく戦法)を作った主要な谷部(黒矢印)の3千人と、真向対決をする尾根鞍(おねあんぶ:赤矢印)の4千人、合計7千人が限界であったと予測します。物資が潤沢であれば出丸で完全に守り切りますので、豊臣方が一度に投入できる兵の数では、北条方の優勢は続き、しばらくは落ちない城の構造と判断しました。

※正式な書名はローマ数字の表記となります。
【広報みしま 令和5年8月1日号掲載】