箱根旧街道(国指定文化財「史跡」)

箱根旧街道とは

 箱根旧街道は、江戸時代初めに徳川幕府が整備した東海道の一部です。
 標高約25メートルの三島宿から標高846メートルの箱根峠を登り、標高約10メートルの小田原宿まで下る八里(約32キロメートル)の坂道です。この坂道は「箱根の山は天下の険」と歌にも唄われたように、東海道第一の難所といわれます。このうち、三島宿から箱根峠を越え、箱根の関所までの区間を西坂とも呼びます。当初、この箱根旧街道には滑り止めのために竹が敷かれていましたが、延宝8年(1680)に二間幅(約3.6メートル)で石が敷きつめられて以降、石敷きの道となりました。また当時の街道には、距離の目安となる一里塚が道の両側に築かれていたのですが、箱根旧街道西坂にも、山中、笹原、錦田の3ヶ所に一里塚が築かれ、現存しています。このうち、錦田一里塚は、大正11年3月8日に国史跡に指定されました。そして、平成16年10月18日には、西坂・東坂の計5.05キロメートルが国史跡に追加指定されました。

箱根旧街道一里塚

 
箱根旧街道一里塚

 一里塚とは、街道沿いに距離の目安として築いた塚のことで、その原型は戦国時代にありましたが、徳川家康が慶長九年(1604)に江戸日本橋を起点に築造を命じたことが有名です。一里(約3.9キロメートル)ごとに作ったので一里塚と呼んでいますが、実際の距離には多少のズレがありました。
 塚の大きさは五間(約9メートル)四方と定められていましたが、高さと形には決まりが無く、方形や円形のものがありました。塚の上には目印となる榎(えのき)・松(まつ)・槻(けやき)・樅(もみ)等の木を植えました。目印の木に榎が最も多い理由は、「根が深く広がるので塚が崩れにくくなるから」と言われています。
 こうした一里塚は江戸時代の旅人にとって距離を知る絶好の目印でした。ところが交通機関の発達とともにじゃま物扱いされるようになり、道路の拡幅によって片側あるいは両側の塚が崩されて消滅しました。
 しかし、最近では歴史的価値が認められ、各地で一里塚の復元整備を行っています。

箱根旧街道石畳

 
箱根旧街道石畳

 江戸時代初期の箱根越えの坂道は、雨が降ればすねまで泥に潜ってしまうような悪路で、ここを通る旅人は大変な苦労をしました。幕府はこうした旅人の便を図るため、街道に箱根竹(はこねだけ)を敷きましたが根本的な解決には至らず、延宝8(1680)年に金1,406両余をかけて石敷きの道にしました。これが今日有名な箱根の石畳です。
 三島市は平成6~9年度まで、町おこしを目的とした箱根旧街道石畳の整備事業を実施しました。整備の対象となったのは笹原(ささはら)・上長坂(かみながさか)・浅間平(せんげんだいら)・腰巻(こしまき)・願合寺(がんごうじ)の5地区で、全長約2キロメートルです。
 整備に先立つ発掘調査の結果、石畳は一辺が30~70センチメートル・厚さ20~30センチメートル程度の大型の石材を道の両側に直線的に配置し、その内側にやや小型の石材を隙間なく敷き並べた、幅二間(約3.6メートル)を基本とする道であることがわかりました。江戸時代の石畳に使用されていた石材の大部分は、板のように割れる性質の安山岩(あんざんがん)で、街道周辺の来光川(らいこうがわ)等の沢筋から運んできたものと推定されています。
 また、石畳の石材はローム層の上に直接据えられており、特別な基礎構造は作られていませんでした。大型で重量のある石材を組み合わせることによって、基礎を作らなくても十分な強度が得られていたのです。しかし、特に傾斜の強い場所や、安定の悪い石材の下には、粘土に小石を混ぜ合わせた基礎材が敷かれている場合もありました。
 こうした発掘調査の結果と地形的な制約に基づいて、大まかに整備を行いました。新たに補充した石材は、本来の石畳の石材とよく似た小田原市根府川の安山岩を使用しました。

箱根旧街道リーフレット