弥生時代(2,700年前~3世紀半ば)
紀元前7・8世紀ごろ、大陸から稲作と金属器(鉄・青銅)が日本列島に伝わり、人々の生活は大きく変化しました。新しい技術によって人口が増大し、各地に溝に囲まれた大きなムラが作られました。コメや金属器など富をめぐる争いも始まります。
市内では川の近くの平坦部に多くの遺跡が分布するようになります。そこでは集落や水田、方形周溝墓(ほうけいしゅうこうぼ)と呼ばれる四角く溝を掘った墓などが見つかっています。
(1)弥生土器(壺・つぼ、甕・かめ)
弥生時代中期 長伏六反田遺跡
農耕が始まると、穀物保存容器として口が小さく、内容物が外気に触れにくい壺型の土器が多く使われるようになりました。器面には西日本の弥生土器と異なり、縄文が付けられています。
甕は主に煮炊きに使用されました。ただし、この甕はお墓(方形周溝墓)に供献されたもので、ほぼ完全な形で出土しました。
(2)水田跡と木製品
水田跡、木製品(田下駄、はしご) 弥生時代後期 西大久保遺跡
河川が湿地化したと思われる場所から畔(あぜ)で区画された水田跡が見つかりました。畔は建築廃材と思われる木の板で補強されていました。写真にあるはしご(家または倉庫の入口に掛けたと思われる)もそのひとつです。
田下駄は水田の泥に足が沈まないよう工夫された道具です。穴が4ヶ所あいており、ここに紐を通して足に固定します。沼津市の浮島沼では、戦前まで使用されていました。
(3)方形周溝墓
弥生時代中期 長伏六反田遺跡
1辺5~15mの四角形(方形)となるよう幅1m前後の溝を掘り(周溝)、その中に低い墳丘を築いた家族用の墓を方形周溝墓といいます。長伏六反田遺跡からは3つの時期の18基の墓が見つかっています。
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