戦国・安土桃山時代(15世紀後半~17世紀初)
戦国時代の伊豆地方は小田原北条氏の領地の西端となり、山中城や韮山城が築かれました。豊臣秀吉が全国統一の最終局面で小田原北条氏を攻撃した際は、小田原城攻撃の前段として山中城で激しい戦いが行われ、わずか半日で落城してしまいました。
全国統一後は太閤検地や刀狩が行われ、兵農分離によって社会の仕組みが固まって安定し、建築や絵画、茶の湯など絢爛豪華な桃山文化が華開きました。
(1)山中城跡
左:二の丸から西櫓、右:障子堀 国指定史跡
山中城は北の足柄城、南の韮山城と共に北条氏領の西側の守りを担っていました。永禄年間(1560年代)に築城されたと考えられており、天正年間後半(1580年代)には増築の記録がありますが、増築は未完のまま豊臣方を迎え撃つことになりました。
堀は中に障壁を設けて敵兵の移動を妨げる、障子堀(しょうじぼり)と呼ばれるもので、北条氏の築城に特徴的にみられるものです。
(2)山中城出土遺物
左から 鉄砲玉・火縄銃の部品 前立物 腰刀・素鑓 陶磁器類
安土桃山時代 山中城跡
城跡からは197発の鉄砲玉が出土しています。青色のものは「鉛青銅玉」、白色は「鉛玉」、赤色は「鉄玉」です。その他、武器・防具も出土しています。前立物とはカブトの装飾のひとつで、額の部分に付けるものです。また、城跡からは将兵たちの生活で使われたと思われる陶磁器類が出土しています。輸入物の青磁や染付、瀬戸・美濃・志都呂・常滑窯などの国内産が見つかっていますが、その数は他の城郭に比べて少数でした。
(3)豊臣秀吉掟書
天正18年(1590)4月
豊臣秀吉が北条氏の支配下にあった村々に対して、軍の行動の規制と治安維持を保証するために多数発給した文書のひとつで、市内中郷地域から函南町にかけての9か所に宛てて出されたものです。
この掟書が出された時期はまだ小田原城落城前で、村人たちは略奪・誘拐を避けるため村から逃亡していたと考えられます。そのような状況のなかで、この文書では、戦乱で逃げ散った百姓らはもとの地に戻って生活すること、豊臣の軍勢は百姓らの家に入り乱暴をしないこと、もし違反する者があれば厳しい刑に処すること、などが示されています。
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