歴史の小箱
(第364号)地域の歴史 中地区(平成30年9月1日号)
九月とはいえまだまだ暑い日が続きますが、田んぼの稲は穂を実らせ、そろそろ収穫が楽しみな時期になってきました。
今回は、三島市の中でも田園地帯に位置する集落のひとつである三島市中(なか)地区の歴史をご紹介します。
中地区は錦田地域の中で唯一大場川の西にある集落で、地名は御殿川と大場川に挟まれた地形に由来すると言われています。明治二十二年(一八八九)に合併して錦田村になるまで、中村と呼ばれていました。戦国時代頃までは「北中村」と呼ばれており、周辺の村々とともに三嶋社(三嶋大社)領であったことが、足利尊氏の文書で判明しています(ちなみに南中村は現在の伊豆の国市韮山南條付近とされる)。
川に挟まれた立地のため水利がよく、古来稲作の盛んな地域で、奈良・平安時代の遺跡からは、稲作を主業とする集落跡が見つかっています。この地域の農業については、江戸時代に代々名主を勤めた鈴木家に残された古文書(中 鈴木家文書)からも多くの情報が得られます。
特に文禄三年(一五九四)と慶長八年(一六〇三)におこなわれた検地の記録(検地帳)は大変貴重なものです。これらと正徳四年(一七一四)に調査された村の記録等から、江戸時代初めには村高(村内の米収穫量)五〇三石、家数十六軒、人口六十人余であったことがわかります。その約四十年後には家数・人口は二十六軒、九十九人まで増えています。
また、幕末に稲の種まきをした際の記録資料である「種おろし」には当時この地で栽培されていた稲の品種が書かれており、「三島小僧」「大場小僧」などの品種の存在がこの資料で初めてわかりました。三島地域で生まれた品種だったようです。「種おろし」は二十六年間に渡って記録された稲栽培に関する記録であり、ほかにも多くの伊豆地域の名を冠した品種の栽培が記録されていました。栽培された品種や時期について長期間に渡る記録は大変珍しく、この地域の農業に関する歴史や生活を考える上で大変貴重な資料です。
中村は農業に適した土地であっただけでなく、今でいう「交通の便がよい」土地でもありました。集落内には三嶋大社門前から南下する街道(旧下田街道)が通っており、この道は平安時代末に蛭ヶ島に流された源頼朝が三嶋大社へ参詣する際にも通ったと伝わります。集落の街道沿いにある手無地蔵堂(てなしじぞうどう)には、三嶋大社参詣途上の頼朝が怪しい美女の腕を切り落としたところそれは地蔵の化身で、以来地蔵の手が無くなったという伝説が残されています。
【広報みしま 平成30年9月1日号掲載記事】
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