歴史の小箱
(第369号)地域の歴史 玉沢(平成31年2月1日号)
今回は箱根西麓の山中にある集落、玉沢を紹介します。
玉沢は、元の地名を大木沢(おおきざわ)といい、箱根山中で大きな木が何本もそびえ水が湧き出る谷間でした。江戸時代の始め( 一六〇三) に日蓮宗の名刹「経王山妙法華寺」が移転してくるにあたり、その寺領(朱印地)となり、伽藍(寺院の建築物)が建造されます。地名の由来は、「玉泉の境に宗門の法水が伝えられ、衆生(しゅじょう)に沢めぐみを得さしむる」という趣旨で「玉沢」と称したといいます。
寺の移転の後、寺を支える人々が門前や寺域に定住し、七軒百姓と呼ばれました。七軒百姓は寺から土地を分けてもらい、寺の手伝い賃をもらっていたこともあり、山中の集落ながら植林・炭焼きなど林業は成立しませんでした。
また、谷田から玉沢を通り三ツ谷新田に通じる細い玉沢道があります。江戸時代に東海道西坂を進む大名行列などを避けた旅人の裏道として利用されたと伝えられています。
明治九年(一八七六)、妙法華寺から集落が独立して一村となり、玉沢村が成立します。明治二十一年の戸数は十九戸でした。住民は、寺の山を開墾し、畑作や養蚕、馬の飼育などを行いました。その後、乳牛も飼うようになります。
妙法華寺は、日蓮聖人の弟子六老僧の第一である日昭上人が鎌倉に建立した寺です。十六世紀前半に戦乱を避け越後国(新潟県)村田へ逃れ、一五九四年に修善寺加殿(かどの)の妙法寺内に移転し、一六二一年伽藍造営の完了を受けて玉沢の地に移りました。
この移転に尽力したのが、徳川家康の側室養珠院お万の方と英勝院お勝の方かたです。お万の方は、紀州頼宜公と水戸藩祖頼房公の生母で熱心に日蓮宗を信仰していました。彼女らの援助を受け、妙法華寺は広大な寺域に七堂伽藍を構え二六〇余棟の壮麗な伽藍堂舎を備えていました。しかし、十八世紀後半の火災により多くの伽藍を失います。
また十九世紀初め、住職日桓上人(にっかんしょうにん、一瓢〈いっぴょう〉)は俳諧に優れ、小林一茶などと親交を結ぶ一方、玉沢の復興にも努めました。書院や庫裏など多くの建物の造営を行います。このように幾多の移転や災害にあいながらも、日蓮聖人由来の宝物は代々大切に守り伝えられました。
桜や紅葉の名所として市民の憩いの場でもある山里の玉沢ですが、近年大きな変化を迎えています。玉沢集落のすぐ近くに三島総合病院と静岡県総合健康センターができたこと、伊豆縦貫自動車道の三島玉沢インターが設置されたことで、周辺道路の車の通行が格段に増加しています。
静かな山の村はモータリゼーションの激しい流れにさらされ、人々に沢を与え続けることができるでしょうか。
▲現在の玉沢集落
【広報みしま 平成31年2月1日号掲載記事】
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