歴史の小箱
(第409号)学校資料からみた学校と地域のつながり (令和4年7月1日号)
今年は、三島に初めて小学校ができて150年目になります。
今回は、現在の学校がどのようにしてつくられたのか、その一端を小学校に保管されている資料を通して振り返ります。
三島の小学校は、明治5年(1872)に近代的な学校制度が定められたことを受け、続々と開校しました。江戸時代の三島は、物と人が行き交う東海道の宿場町としてにぎわっており、三嶋大社周辺を中心に寺子屋や漢学塾が開校していました。三島の小学校はこれらを前身としてスタートします。
明治初期に学校ができたばかりの頃は、学校建設や運営にかかる費用は地域住民が負担していました。
その後、授業料が無償化され、地域住民の負担は軽減されましたが、施設、設備を新しくするときは寄付が集められたり、教材や美術品が贈られたりと、学校は地域住民に支えられていました。
▲東小学校「木杯」
上写真の木杯は、大正2年(1913)沼津の大火に際して、東小学校の職員生徒一同が被災者へ見舞金を贈ったことを賞し、県知事から贈られました。
当時の建物は今より火災に弱く、東小もまた、昭和30年(1955)に火事の被害にあっています。その時は市内・沼津のほか掛川、浜松など広い範囲から支援がありました。この木杯は、火災復興の背景に地域
を超えて人々の支え合いがあったことを教えてくれます。
また、学校に保管されている『沿革史』は、歴代の校長が学校で起きた重要な出来事を記録したものです。この『沿革史』には戦後の運動場整備が地域との協力によってなされたことを示す記述があります。左の写真
では、昭和29年運動場整備に携わった関係者が書き連ねられており、北上農協、PTAや地域団体の助けがあったことが読み取れます。
▲徳倉小学校「沿革史」
このような学校に伝わる資料は、過去における地域との結びつきや当時の様子を教えてくれる貴重なものとして近年見直されてきています。
これらの過去の歴史を振り返ると、学校建築、運動場などの学びの場は、地域と学校が一体となって築き上げ、今に続いているといえるでしょう。
【広報みしま 令和4年7月1日号掲載】
歴史の小箱(2022年度)
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- (第409号)学校資料からみた学校と地域のつながり (令和4年7月1日号)
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