歴史の小箱
(第412号)勘兵衛が見た山中城(2)(令和4年10月1日号)
歴史の小箱第411号「勘兵衛が見た山中城(1)」の続きで、城の端はたまで侵入した後の
記述になります。
皆さんは障子堀(しょうじぼり)をご覧になったことがありますか。
西ノ丸と西櫓(にしやぐら)の中間とその周囲には、連続した区画の施された横堀があります。戦国末期の
最先端の技術で造られた弓や槍に対応した障子堀でしたが、当時戦力の中心はすでに火縄銃の鉄砲戦に移行していました。
西櫓の「角馬出し(かくうまだし)」は、城から敵を迎え撃つための騎馬をためていた場所になりますが、その広さをせまくして、堀の区画を二重に広げました。そして橋も橋脚台も取り除いて、西櫓を含めて堀幅に加えたと考えられます。鉄砲戦に備え、西ノ丸を最前線として迎え撃つ体制を整えていたと想像されます。
この最先端の技術を南櫓(勘兵衛の言う出丸)に応用しない訳がありません。勘兵衛が到着した城の端は、角馬出しのカーブ部分で、つまり旧国道1号カーブ(図中1)の下には障子堀が埋まっていると予測されています。
さて、勘兵衛が端に到着するまでに見たものは、幅三十間の出丸の「どい」(土壁:つちかべ)と虎口(こぐち/入口)へ通じる「横がけの足場」(橋の橋脚:きょうきゃく)、そして、岱崎出丸の堀下にいた北条方の何もしない守備兵です。また「あげしほり」( 引き揚げ戸:ひきあげど)までは「無透間」(すきまなし)といっていますので、兵による守備ではなく、障害物による防御であったと考えられます。北条方の守備兵の不足を物語る記述です。つまり、築城途中の岱崎(たいさき)出丸(岱崎城)はわずかな兵を残してすでに撤退(放棄)していたことがわかります。
勘兵衛は、次に「あげしほり」まで進入し、南櫓と三ノ丸の二方向から鉄砲による狙ねらい撃うちを受けて一いっとき刻(二時間余り)足止めをされます。
(第414号に続く)
※ 本文章は正式報告とは異なり、現時点では案にとどまります。
【広報みしま 令和4年度10月1日号掲載】
歴史の小箱(2022年度)
- (第417号)勘兵衛が見た山中城(4)(令和5年3月1日号)
- (第416号)富士を詠む俳人―瀧の本連水―(令和5年2月1日号)
- (第415号)地域の歴史―平田―(令和5年1月1日号)
- (第414号)勘兵衛が見た山中城(3)(令和4年12月1日号)
- (第413号)国司館の推定地―上才塚遺跡―(令和4年11月1日号)
- (第412号)勘兵衛が見た山中城(2)(令和4年10月1日号)
- (第411号)勘兵衛が見た山中城(1)(令和4年9月1日号)
- (第410号)江戸時代のすごろく―道中双六(どうちゅうすごろく)―(令和4年8月1日号)
- (第409号)学校資料からみた学校と地域のつながり (令和4年7月1日号)
- (第408号)将軍に献上された三嶋暦 (令和4年6月1日号)
- (第407号)歓喜寺のお地蔵様 (令和4年5月1日号)