歴史の小箱
(第413号)国司館の推定地―上才塚遺跡―(令和4年11月1日号)
今回は、市街地に位置する上才塚(かみさいづか)遺跡について紹介します。
現在の静岡県域は、かつて遠江国(とおとうみのくに)•駿河国(するがのくに)・伊豆国(いずのくに)の三つに分かれていて、伊豆諸島(現東京都)を含む伊豆半島は、伊豆国とされていました。
それぞれの国には、国内を統治するための拠点として「国府(こくふ)」、いわば県庁所在地のような場所
が設定されていました。伊豆国の場合、国府所在地はここ三島市域に当たります。国府には、「国庁(こくちょう)」と呼ばれる国内の政務を処理するための中心的な庁舎(今でいう県庁舎のようなもの)が造営され、都から派遣された「国司(こくし)」と呼ばれる役人が、そこで政務を執っていました。
国司は朝廷によって任命された都の役人です。6年(のち4年)の任期付きで地方へ派遣され、任期中は、「国司館(こくしのたち)」と呼ばれる官舎に滞在しました。時代が降ると国庁で執るべき国務を国司館で執るようになったといわれており、国司館は単なる社宅とは言い切れない、公的な性格をあわせもつ建物でした。
国府であった三島市域には、このような国庁や国司館の建物が存在していたと推測されます。しかし国庁のあった場所というのは、いまだ明らかではありません。候補地として、旧下田街道東側の本妙寺辺り(大社町)が挙げられていますが、根拠となるような出土資料や建物跡などが見つかっていない状況です。
一方、国司館については有力な候補地が挙がっていて、旧下田街道の東に位置する上才塚遺跡(東本町)がこれに当たるだろうと言われています。現在遺跡は住宅地となっており、当時の様子がわからなくなっていま
すが、板塀で囲まれた倉庫群の跡とみられる柱穴の列や、8~9世紀の土器、瓦、10世紀のものと見られる腰帯(ようたい:ベルト)の飾りなどが見つかっています。
巡方の破片(オモテ)約4cm
巡方の破片(ウラ)
写真は上才塚遺跡から見つかった「巡方(じゅんぽう)」と呼ばれる腰帯の飾りです。
元は正方形に近い形のもので、割れて半分だけが見つかった状態です。並べてつけて飾りとしたもので、裏には帯に装着するための紐を通す穴があいています。巡方は、その素材によって使用した人の範囲をある程度しぼれるのですが、本資料はメノウ(鉱物の一種)製であることから、国司に任命されるような位階の役人の腰帯を飾った巡方だろうと推測されています。こうした資料や建物跡の構成から判断して、この遺跡を含む範囲に国司館があった可能性は高いと考えられています。
【広報みしま 令和4年度11月1日号掲載】
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