飛鳥・奈良・平安時代(6世紀末~12世紀後半)
奈良や京都に都が造られ、律令制度が整えられ、天皇を中心とした政治が行われました。地方には役所が置かれ、これらを結ぶ道や港も整備されました。また、仏教が伝わり、各地に多くの寺院が建立されました。
三島には伊豆国の国府として国分寺・国分尼寺・国庁がおかれました。国分寺の塔跡が見つかっており国の史跡に指定されていますが、国分尼寺や国庁の位置は明確になっていません。
(1)国分寺塔跡
奈良時代 国分寺境内
奈良時代の国分寺の跡として、金堂・塔・僧房・回廊の跡が見つかり、東大寺式伽藍(がらん)配置の寺院であったことがわかりました。
(2)市ヶ原廃寺塔心礎
飛鳥・奈良時代ヵ 祐泉寺境内
市ヶ原廃寺は飛鳥・奈良時代に建てられた寺院で承和3年(836)に焼失した国分尼寺の代用の寺院となった大興寺に比定されています。伽藍配置は不明ですが、西塔の位置で見つかった塔心礎が保存されています。
(3)上才塚遺跡(かみさいづかいせき)
上才塚遺跡第2地点 8~9世紀前半頃カ(遺構の一部)
市内東本町の上才塚遺跡から板塀に囲まれた倉庫群と思われる建物跡(図の右側)と幅9mの南北に走る道路跡(建物跡の左隣接地)が見つかりました。これらは国司館(国司の住む館)に相当する施設と、国庁正面から南に向かう朱雀(すざく)道と考えられます。そこから、国庁は三嶋大社の南東、市ヶ原廃寺の東あたりにあったのではないかと想定されています。
(4)箱根田遺跡の人面墨書土器(じんめんぼくしょどき)
左:箱根田遺跡全景 中央:主な出土遺物 右:人面墨書土器 奈良・平安時代
三島市安久の箱根田遺跡からは運河とそのそばに建てられた倉庫の跡、たくさんの土器や木製品が見つかりました。その中には墨で人面が描かれた人面墨書土器や木製の人形(ひとがた)・馬形が含まれていました。これらは自分たちのけがれを移し、祓いの儀式を行うために使われたと考えられています。
人面墨書土器は国の施設に関わる遺跡で発見されるものであり、運河や倉庫群の跡も見つかっていることから、箱根田遺跡は国家による物資輸送の中継地点となる港だったのではないかと想定されます。
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