鎌倉時代(12世紀後半~14世紀前半)
平氏を壇ノ浦で滅ぼした源頼朝は、鎌倉に幕府を開いて征夷大将軍となり、武士による政治の仕組みを整えました。また、仏教や文学、美術などの文化も広がりをみせ、武士の気風を反映した力強い文化が生まれました。
源頼朝は平氏を滅ぼす前に伊豆国韮山に流されていました。頼朝は源氏再興を祈願して三嶋大社に何度も参拝したといわれており、三島市を中心に伊豆地方各地に頼朝にまつわる伝承が残っています。頼朝以降、三嶋大社は多くの武士に崇敬され、現在でも多数の参拝客を集めています。
(1)三島~韮山に残る頼朝伝承
左から 間眠神社、妻塚観音堂、右内神社、蛇が橋
頼朝は三嶋大社へ源氏再興の百日祈願をしたといわれ、その往復の際の伝承が多数残っています。間眠神社(まどろみじんじゃ)の地では頼朝が松の下でまどろんだといわれています。
妻塚観音堂(さいづかかんのんどう)は頼朝の暗殺を狙う男が、暗殺をやめさせようと後を付けてきた妻を頼朝と間違えて斬ってしまい、その妻を祀ったものとされています。
右内神社(うないじんじゃ)では境内に手洗い水がないため、頼朝がなぎなたで地面を2,3度突いたところ水が湧き出した、という伝承があります。
来光川に架かる蛇ヶ橋(じゃがはし)の名は大雨で橋が流され、頼朝が韮山へ帰れなくなったとき、一本の丸太が川の上流から流れ着いたので念仏を唱えながら渡った後、振り返ると丸太は大蛇に変わっていたという伝承に由来します。
(2)頼朝の旗揚げ
源頼朝山木舘夜討図 江戸時代嘉永年間(19世紀)出版 歌川国芳画
伊豆に流されていた頼朝は治承4年(1180)8月17日、平氏一族の山木兼隆の館を襲撃しました。これが頼朝の挙兵の発端となります。8月17日は伊豆一宮の三島社(三嶋大社)の祭礼の日に当たります。頼朝らは兼隆も祭りに奉仕して何かと忙しく、館の防備も手薄になるだろうと考えて、この日に襲撃を決行したのでした。
頼朝はその後、石橋山の合戦での敗戦、富士川の合戦での勝利などを経て平家を滅ぼし、鎌倉幕府を開いて征夷大将軍となりました。
※写真の転載を許可します(「転載禁止」表示のあるものをのぞく)。ただし、出典を明記してください。(例「三島市公式ホームページ「三島の歴史」より」)