大正~昭和戦前(軍隊と三島)(1912年~1945年)
明治時代、徴兵制がはじまり、近代的な軍隊が作られました。当初は人々の反発も強く徴兵忌避も見られましたが、次第に軍隊は「郷土の誇り」となっていきました。また、軍隊の経済的な利益も大きく、各地で誘致運動がおこりました。三島では誘致運動の結果、大正時代に野戦重砲兵旅団(第2、第3の2個連隊)が置かれ、軍都として栄えました。
昭和に入ると、日中戦争・太平洋戦争が起こります。戦況が悪化していくと、多くの男性が兵士として出征を強いられるとともに、国内に残る人々の銃後のくらしも苦しいものとなっていきました。
(1)陸海軍聯合大演習之図
明治24年(1891) 緒明春雄氏旧蔵
大規模な軍事演習を描いた、タテ175cm、ヨコ335cmの大型の板絵です。明治24年は現在市立公園楽寿園となっている場所に小松宮彰仁(あきひと)親王の別邸が造られた時期で、当時陸軍大将でもあった小松宮を歓迎して地元有志が献納したものと思われます。
このような板絵がつくられたということから、この頃には軍隊や兵役が忌避されるものから支持・歓迎されるものへ変わりはじめたのでしょうか。
(2)野戦重砲兵第2・第3連隊
左上:第三連隊 正門 右上:演習風景
左下:創立記念日のようす 右下:歩哨舎跡
大正8年(1919)に野戦重砲兵第2連隊が、翌大正9年に第3連隊が三島町に移転してきました。富士山の裾野で演習ができ、誘致活動にとくに熱心だったため三島が移転先に選ばれたといわれています。町の人々は将兵に下宿や家を貸し、休日は飲食店などが賑わいました。また、食料や馬の秣、雑貨などの需要も大きなものだったようです。
(3)戦時下のくらし
左から陶製湯たんぽ、貝殻のシャモジ、龍爪神札 昭和10年代(1935~45)
金属不足のため、その代替品が利用されるようになりました。竜爪神札は山でイノシシなどの狩猟のときに、鉄砲の弾にあたる事のないように祈願していたものですが、次第に出征する兵士の弾除けのために求められるようになりました。
※写真の転載を許可します(「転載禁止」表示のあるものをのぞく)。ただし、出典を明記してください。(例「三島市公式ホームページ「三島の歴史」より」)