(第244号)狩野川台風について (平成20年9月1日号)

 昭和三十三年に伊豆地方に甚大な被害をもたらした狩野川台風から今年(平成20年)で五十年を迎えます。  

 昭和三十三年(一九五八)の伊豆は、台風銀座といわれるほど多くの台風に見舞われました。七月二十二日の台風11号を皮切りに、八月二十六日に17号、九月十七日には21号、そして九月二十六日の台風22号(通称・狩野川台風)は、狩野川流域に甚大な被害を及ぼしました。  

 この狩野川台風は、九月二十一日にグアム島東方洋上に発生し、中心気圧は八七七ヘクトパスカル、中心の最大風速七五メートル、半径四〇〇キロメートル以内は風速五〇メートル以上の暴風雨を伴う戦後最大級の大型台風となり、二十六日の夜半には伊豆半島をかすめて江ノ島に上陸し、関東南部を貫通して北海道南部へ向かいました。総雨量は、伊豆半島中部に七五三ミリ、最大時雨量は天城湯ヶ島で午後九時から十時までの間に一二〇ミリを記録しています。三島の年間降水量が約一八〇〇ミリですから、狩野川台風による雨量が桁外れであったことが分かると思います。  

 ちなみに、狩野川台風は気象庁から公式に名称が与えられた最初の台風となりました。

被害の概要  

 もともと一週間前の台風21号の影響で緩んでいた地盤が、狩野川台風の大雨により狩野川上流の天城山系に山崩れを発生させました。このため多量の土砂と流木が狩野川に流れ込み、流出した流木が土石と交じりあって堰を作り、やがて堰が崩れる時に山津波(土石流)となって被害をもたらしました。さらに橋に堰き止められた流木が上流部の水位を急上昇させ、その水圧によって多くの橋や堤防が決壊し、津波のような大洪水を起こし、周辺の家々を押し流すなど、被害を大きくする原因となりました。修善寺の横瀬橋付近は特に被害が大きく、修善寺中学校の校舎は押し流され、熊坂や御門・白山堂の集落ではほとんどの人家が流されました。また千歳橋(旧伊豆長岡町)は上流から流れてきた流材を堰き止めて山となし、このため水勢は堤防を切って一挙に田方平野を襲い、泥海と化しました。幸い三島では壊滅的な被害はなかったものの、伊豆北部全体では、死者九三〇人、住宅全壊八二二戸、農地や農作物の被害、道路の損壊など未曾有の大惨事となりました。また、静岡県内だけの被 害にとどまらず、関東一円にも大きな打撃を与えており、東京では死者行方不明者は少なかったものの、浸水家屋は三三万戸近くに及び、静岡県の二十倍にも達しました。

狩野川台風による一面の流材
244狩野川台風による一面の流材
【平成20年 広報みしま 9月1日号 掲載記事】