歴史の小箱
(第163号) ~江戸時代のハイウェイ~ 「箱根西坂石畳道」 (平成13年12月1日号)
最近4~5年間に箱根西坂旧東海道を歩いた人は、昔の山道だったころと比べて整備された石畳道に多少驚いたかもしれません。
現在、箱根中腹の笹原新田から山中新田の上にかけて約2キロメートルにわたり石畳道が敷き詰めらました。
三島市では平成5~9年にかけてこの区間の発掘調査を行い、その結果、以前はわずかに石が見える山道だったものが、二間幅(360センチメートル)で石が敷き詰められた立派な道が出現したのです。
箱根の坂道にこのように石が敷き詰められたのはいったいいつ頃のことでしょうか。記録によると延宝八年(1680)江戸幕府の命令により、奥伊豆の村々の負担により1406両かけて箱根西坂約10キロメートルを整備し石道としています。
この後何回か改修工事が行われ、文久元年(1860)には皇女和宮が将軍家茂公に嫁ぐために下向するので、大きな道普請を行いました。けれども和宮は中山道を回り、この石畳道は通ってはいません。
坂道には50センチメートル四方ほどの石が敷き詰められ、道の端は大石でがっちりかためられていました。もちろん石が失われている個所も多く、縁石のみ残るところもあります。
ことに大きな発見は、古文書では記録されていた石橋の出現でした。山中新田集落からしばらく上ると、石橋が二ヶ所あります。このうち一本杉石橋には長さ180センチメートル前後の板石が6枚、敷き並べられていました。
箱根の山中に石畳や石橋の材料となる石をはこび上げるのは大変な工事だったことでしょう。昔の石畳道には、いくつか石臼が据えられていて、石を持参出来ない人々が持ってきたと言われます。
今でも今井坂の舗装道路の下に埋まっていると伝えられます。
毎年何万人もの旅人が歩いた石畳道は明治中期、東海道線の開通と共に歩く人も少なくなりいつしか山道となってしまったのです。石畳道の発掘調査の様子は企画展「箱根八里」で詳しく紹介しています。
(広報みしま 平成13年12月1日号掲載記事)
歴史の小箱(2001年度)
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