歴史の小箱
(第118号) ~社家の証明~ 三島神社氏子札 (平成10年3月1日号)
二枚の木の札を、暦師の伝統を誇る河合家から寄贈を受けました。
縦9センチメートル・横5.6センチメートル・厚さ8ミリメートルの小さい木札ですが、そこには墨で次のように記されていました。
表面
(一)「三島神社氏子」(神社朱印)伊豆国君沢郡社家村 河合龍節妻うめ」
(ニ)「三島神社氏子」(神社朱印)伊豆国君沢郡社家村 河合龍節男河合彌 嘉永七甲寅閏七月廿日丁亥日巳上刻産」
裏面
(一)明治五年壬申九月 少宮司萩原正平(印)袮宜矢田部盛次(印)
(ニ)明治五年壬申九月 少宮司萩原正平(印)祢宜矢田部盛次(印)
この札が何のために作られ、どのように使われたのか、不明な点がありますが、当時の歴史などを探り、いろいろ類推してみました。
表面に「三島神社氏子」とあり、住所と氏名および「河合彌」に限っては誕生日・時刻まで記されていることから、その使用法は人物が三島神社の氏子であることを証明する札であろうことが想像できます。そして、裏面は、神社の少宮司と祢宜の署名と捺印、年号があります。この二人が表面の人物を証明したものでしょう。
さて、明治5年という年は、当時の三島神社が大きく変わろうとしているころでもあり、また、暦師の河合家にとってもかつてない規模で行われた太陽暦への改暦のあった年でもあり、そのような時代の状況と何らかの関係が、このお札にはあったものかも知れません。
三島神社については、前年の明治4年に社格移行のため「三島大社取調書」が神主の矢田部盛治から韮山県宛に提出され、同年正式に官幣【かんぺい】大社となっています。その際、古くからあった同社の祭神議論をとりまとめて「事代主命【ことしろぬしのみこと】」と定めた(明治6年)のが平田篤胤【あつたね】の門人であり、木札の証明者の萩原正平でした。
小さな木札の中に、多くの歴史が埋もれているように思えます。
(広報みしま 平成10年3月1日号掲載記事)
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