歴史の小箱
(第114号) ~広重の見た?三島~ 三島明神前「朝霧」 (平成9年11月1日号)
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このほかに、いわゆる版元別に通称される「江崎屋板」「佐野喜板」「丸清板」「蔦屋板【つたやばん】」や「伊場仙板」の「東海道張交図会【はりまぜずえ】」(大堅版【おおたてばん】、十二枚揃【ぞろえ】)などが知られます。それらはまた絵や挿入文字の特徴から「隷書東海道」「行書東海道」「人物東海道」「狂歌入り東海道」などとも別称され、親しまれています。
広重の経歴には次ぎのような不明な点が多くあります。
広重は寛政8年(1796)八重洲河岸【かし】の火消屋敷に安藤徳右衛門【とくうえもん】の子として生まれ、幼名は徳太郎。後に十右衛門【じゅうえもん】又は重右衛門【じゅうえもん】と改めたようですが、一説には十兵衛【じゅうべえ】を徳兵衛【とくべえ】に改めたとも言われるなど、若いときから謎めいています。十五歳の時滝川豊広(又は歌川)の門に入り、十六歳で歌川広重の名前を受けて一遊斎【いちゆうさい】と号しますが、さらに一立斎【いちりゅうさい】あるいは立斎【りゅうさい】と号するなど、改名をくり返しています。天保3年(1832)7月、広重は幕府から京都に向かう一行の同行を命じられ、その際に東海道を上り、五十三次を見聞したと言われています。
ところがこの広重は実際には東海道を歩いていないと言う説があります。彼の五十三次は模倣【もほう】であり、空想であるというもので、特に傑作とされる保永堂版「東海道五十三次」は、約60年早く元文3年(1738)江戸の芝に生まれた司馬江漢の「五十三次」が原画であるという説です。原画だとされる「三島」の場面は、広重の早朝風景に対して、月明かりの中の明神前風景なのです。興味ある話ですが、さて、真実はどちらでしょうか。
(広報みしま 平成9年11月1日号掲載記事)
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