歴史の小箱
(第110号) ~江戸時代の庶民のお金~ 銭 (平成9年7月1日号)
貨幣にはおのおの体系の異なる金・銀・銭の三貨がありました。
金には「両」、「分」、「朱」、「疋【ひき】」があり、小判(一両)と一分金が基本貨幣となっていて、それぞれの比率は一両=4分、一分=4朱、一分=金100疋で、これ以外に額面十両の大判は、金相場にあわせて両替する、別途扱いでした。
銀は秤量【しょうりょう】貨幣が主体で、貫、匁【め】と表示しました。丁銀、豆板銀がそれで、安永年間(1772~)以後、金貨と通用するようになった一分銀、二朱銀、一朱銀は定位貨幣と呼ばれました。
銭の基本単位は文。一文銭、四文銭、十文銭、百文銭などが造られていて、一貫文=1000文、10文=銭一疋という比率でした。
三貨間の両替は公定相場、市中相場があり、時代によっても異なっていました。例えば、元禄13年(1700)では、金一両=銀60目(匁)=銭4貫文だった両替率が、幕末の天保13年には、金一両=銭6貫500文となります。
さて、実際にあった江戸時代の三島の暮らしの諸物価を眺めてみましょう。
三島宿の本陣、樋口本陣の文久4年(1864)の古文書には、白米一升238文、塩一升100文、酒一升600文、醤油一升500文等々の諸物価が記され、武家一人の宿泊費が424文、昼旅籠代(昼食・休憩)が180文となっています。物の値段に比べて、宿賃の安さが目に付きます。
東海道の旅人は、どのような金銭の旅をしたのでしょうか。伊豆佐野の勝俣花岳【かがく】は嘉永【かえい】6年(1853)に伊勢、金毘羅参りなどの近畿・瀬戸内の大旅行を行っていますが、旅日記の小遣い帳に克明に費用を記しています。
それによれば、泊まり賃は平均200文、昼食には50文、時にはソバだけの昼食で16文などとあります。
銭は庶民のお金だったのです。
(広報みしま 平成9年7月1日号掲載記事)
【令和5年2月15日 天保の相場に関して「金の品位」が影響したとする一文を削除しました。】
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