歴史の小箱
(第113号) ~明治初期・本陣の歴史を語る~ 「下乗」「下馬」の札 (平成8年11月1日号)
分厚い檜【ひのき】の二枚の「下乗【げじょう】」「下馬【げば】」の札を、旧本陣の樋口家【ひぐち】から寄贈を受けました。百年以上の時が過ぎ、雨風にさらされていたために少し腐りかかってはいますが、黒く太い墨て書かれた文字は今なお風格があります。
下乗、下馬とは「これより先、人は車や馬からは下りなさい」という意味で、札はそれを知らしめるためでした。多くは神社や寺院の境内入り口付近に立てられ、聖域へ人がみだりに入ることを禁じたものです。
これが旧本陣に残っているということには、本陣が聖域になった歴史があるからです。
本陣とは江戸時代に各宿場ごとに設けられた施設で、街道を往来する将軍をはじめ、諸大名や諸役人たちが利用するための休息及び宿泊施設でした。幕府の荷物や役人、大名などがもっとも多く往来する東海道にあって、本陣は無くてはならない重要な施設でした。三島の場合、樋口家、世古家という2軒が小中島(現在の本町)に向き合って建っていました。
江戸時代には主に幕府公用の休息・宿泊施設として繁栄してきた本陣でしたが、明治になると急速にその役目がなくなってしまい、樋口本陣では一般の旅行者や馬も泊めるなど、営業の方向転換を図ります。そうした江戸から明治への時代の変わり目の時、本陣が一躍世の中の脚光を浴びることが起こりました。明治天皇の都合四回にわたる行幸でした。
「明治天皇後巡幸年表」(三島市誌 下巻)では、明治天皇が三島に宿泊されたのは、
○明治元年10月 7日(樋口)
○同 元年12月10日(本陣)
○同 2年 3月24日(樋口)
○同 11年11月 6日(世古)
の四回ということになっています。
とすれば、樋口本陣に泊まられたのは、明治元年か2年のこととなりますので、件【くだん】の「下乗」「下馬」も、そのときに使用されたものでしょう。
(広報みしま 平成8年11月1日号掲載記事)
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