歴史の小箱
(第265号)玄峰塔と玄峰塔由来記 (平成22年6月1日号)
企画展「没後玄峰老大師50年宋淵老大師27年墨蹟展」(平成22年3月9日から6月6日)に併せ、玄峰老師の墨蹟「玄峰塔」と宋淵老師「玄峰塔由来記」を紹介します。
山本玄峰老師は、昭和三十六年六月三日に九十六歳で遷化されました。今年は遷化後ちょうど五十年にあたります。
玄峰老師はご遷化前に、生誕地である和歌山県田辺市湯の峰温泉の信徒から塔を建てることを懇願されていました。しかしながら老師は「わしが死んでも、墓や塔を建てるな」と述べ、しばらくは固辞していましたが、最後は信徒の熱意に折れて塔建立のため、畳一畳程もある大きな紙に「玄峰塔」と揮毫しました。その時の様子を
知る人たちは、揮毫の際には筆が畳にくい込んだといい、見る者は、その気力に身動きできなかったといいます。またこの様子について、弟子である宋淵老師も左の如く由来記を遺しています。
【玄峰塔由来記(原文)】
昭和丗六年五月十六日。御遷化十九日前の朝、竹倉の湯に師翁を訪ひたるに、病床より這う如くにして起き出で給ひ、「今。書く。」と申さる。我等驚きあわてゝ、些かにても御身体に、お障りなからん為、広机を重ねその上に紙を拡げ用意したるに、「それでは、力入らず。」とて、取除けさせ給ひ、常の如く御静坐。渾身一気。大毫を揮ひ給ひぬ。紀州、熊野湯の峯に建てゝ、「誕生地」と書くべき碑面に自らの「塔」を自らものし全生全死、曠然として自ら適き給ひぬ。高齢九十六。この絶筆を前にすれば、三ヶ年に亙り、ご病態は呈し給ひしも
、御病気のけぶらひもなく、日面佛月面佛 却って我等の病気をのみ慈念し賜ひし師 翁の御俤 髣髴として只、涙を呑む。
啼きめぐる 夏の鳥あり その夜より そうえん合掌
これによれば、「玄峰塔」は昭和三十六年五月十六日、竹倉温泉で揮毫され、三年間ご病気をされて床に伏されていたにも拘らず、いざ書かれる段になると起き上がって、いつものように静坐され、用意した机も取り払い大書したと記されています。
しかしながら、この由来記は宋淵老師自身によりたびたび手が加えられたと思われ、文中にある所々の加筆部分から推察すると「玄峰塔」を揮毫した日は、「四月十六日。御遷化四十九日前」と読むこともできそうです。
「玄峰塔由来記」には、尊敬する師に対する弟子の想いが感じられます。
玄峰塔
玄峰塔由来記
【平成22年 広報みしま 6月1日号 掲載記事】
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