歴史の小箱
(第274号)市制施行70周年① 三島町と北上村 (平成23年3月1日号)
今年は三島市が誕生してから七十年を迎えます。三島では過去三度の合併(昭和十年、同十六年、同二十九年)が行われ、この三回の合併について、シリーズで取り上げます。
初回は、昭和十年の三島町と北上村の合併です。
合併前の北上村役場(個人蔵)
三島町と北上村が合併したのは、市制施行に先立つ六年前の昭和十年(一九三五)になります。この合併の五年前、昭和五年に北伊豆大震災がこの地方を襲い、北伊豆の町や村に大きな打撃を与えました。推定マグニチュードは七・三、ほぼ阪神淡路大震災並みの地震ということになります。この地震により三島町も北上村も、ほぼ半数の家屋が被災し、特に三島の中心街はほとんど壊滅状態でした。しかしながら、昭和八年には震災から復興し、その翌年、丹那トンネルが開通すると同時に現在の三島駅が開業しました。
こうした時流の中、昭和十年四月一日に北上村との合併が成立します。北上村は、江戸時代の村落である佐野村・徳倉村・幸原村・沢地村・壱町田村の五カ村がまとまり、明治二十二年(一八八九)の町村制施行に伴って北上村として発足したものです。
このころの北上村は、境川の東から箱根西麓にかけて点在する小扇状地を水田として活用し、桑や甘藷(さつまいも)の畑が山畑まで広がる純農村地帯でした。水稲を中心に、養蚕、畑作を行い、特に北上特産の甘藷(山北印の三島いも)は全国ブランドとして市場に出荷されました。しかし、全国的な農村不況の煽りを受け北上村
の財政も逼迫し、三島町との合併という選択を余儀なくされました。
合併時に交わされた「合併に関する覚書」には「合併の形式は北上村を廃し其の区域を三島町に編入すること」および「北上村有財産たる土地建物並に債権債務を三島町へ引継ぐものとす(以下略)」などとあることからも、この合併が北上村にとって対等ではなく、編入合併であったことが分かります。
この合併により、三島町の人口は約二万八千人(現在は約十一万三千人)となりました。このうち北上地区は約二千六百人で、合併当時、錦田村や中郷村は既に五千人を超えていたことからも、北上村は三島町を含めた四地区の中では一番人口が少ない地区でした。しかし現在、北上地区の人口は約二万九千人と、合併当時の十倍以
上増加しており、その増加率は四地区の中でも群を抜いています。
※人口数の現在値は平成二十二年十二月現在です。
【平成23年 広報みしま 3月1日号 掲載記事】
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