歴史の小箱
(第267号)接待茶屋の大茶釜 (平成22年8月1日号)
現在開催中の収蔵品展「三島宿と箱根西坂」(平成二十二年七月三日から八月二十九日)に併せ、展示中の館蔵資料「接待茶屋の大茶釜」(平成26年8月現在は3Fに展示)を紹介します。
箱根越えは東海道随一の難所として知られており、その道中、現在施行平と呼ばれる所に、行き交う人や馬のための無料の休憩所「接待茶屋」がありました。この接待茶屋の経営は大きく3つの時期に分けられます。
①はじめは文政七年(一八二四)、江戸の豪商加勢屋與兵衛を中心に供出された千両の基金を元に経営が始められました。このときは箱根東坂(現箱根町割石坂付近)にも休憩所が一カ所設けられていました。しかし、安政元年(一八五四)には経営難のため、茶屋は一度閉じられてしまいました。
②その後、接待茶屋は江戸時代末期の農民指導者 大原幽学の門人たち(八石性理教会)によって明治十二年(一八七九)に再興され、教会からの多少の資金と門人たちの奉仕により経営されました。
③明治三十四年(一九〇一)、茶屋の経営が門人の鈴木利喜三郎に引き継がれますが、明治三十八年(一九〇五)ころから教会の運営難のため資金と人員の支援が受けられなくなります。ここから、昭和四十五年(一九七〇)に茶屋が閉じられるまでは鈴木家の個人経営となります。これまでと違い多額の基金も人員の支援もなく、茶屋の経営と鈴木家の生活は非常に苦しいものでした。しかし、鈴木家の人びとの強い使命感、近隣の人たちの支援や箱根竹の出荷などの資金獲得の工夫により茶屋経営は続けられ、立ち寄る多くの人びとに感謝されました。
写真の大茶釜は今年六月に鈴木利喜三郎の子孫、鈴木征子氏より郷土資料館に寄贈されました。
側面に「明治十二己卯年七月」とあり再興の年から使用されていたようです。また、「広為道友鋳此器永充施行平憩所之用」とも刻まれています。道友たち(門人を指す)のために作ったこの茶釜が施行平の接待茶屋の経営に永きにわたって役立つように、という茶釜にこめられた思いは再興後約九十年の茶屋経営で果たされたので
はないでしょうか。
この茶釜のほか、鈴木家にはさらに大きな、大人が数人でないと運べないような茶釜もあり、茶屋で恩恵を受けた人の多さを想像させます。
現在、施行平に往時をしのばせるものはほとんど残っていませんが、森林ボランティアを中心とした「箱根接待茶屋の森づくり協議会」の活動が始まっています。接待茶屋経営は現在のボランティア活動に似ていますが、今後、またこの場所でボランティアによる憩いの場の提供が再開されることになりそうです。
大茶釜
【平成22年 広報みしま 8月1日号 掲載記事】
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