歴史の小箱
(第371号)箱根西坂の接待茶屋(平成31年4月1日号)
平成30年8月、「箱根八里」が日本遺産の認定を受けました。これを受け、郷土資料館では箱根八里に関する調査を進めています。今回は、その中からこれまで詳細がよくわかっていなかった幕末の接待茶屋について紹介します。
三島~小田原間の箱根八里は東海道随一の難所として知られています。その道中、山中新田と箱根宿の間の現在「施行平」と呼ばれる所に、行き交う人馬のための無料の休憩所「接待茶屋」(施行所とも呼ばれる)がありました。
文政七年(1824)、江戸の豪商加勢屋與兵衛(かせや・よへえ)は箱根の西坂と東坂に1カ所ずつ接待茶屋を設置しました。その後、中山道の碓氷(うすい)峠と和田峠にも設置し、合計四カ所となります。與兵衛は二千両の基金を設け、その貸付け利子で接待茶屋を運営しました。しかし、年月が経つに従い返済が滞り資金を得られなくなったため、西坂の接待茶屋は三十一年後の安政二年(1855)に閉鎖されてしまいます。
山中新田から箱根宿までは距離が長い上に休憩施設も少なかったため、人や荷物の輸送に携わる人馬にとって接待茶屋は一息入れることができる貴重な場所でした。そのため、閉鎖の事情を理解できない馬が接待所のあった場所に通りかかると、以前と同様に立ち止まって歩こうとせず、見るに忍びない様子だったそうです。また、この時点では東坂の接待茶屋が存続していたため、三島宿側だけが閉鎖されたのは不公平だ、という不満も出ていたようです。
そこで、三島宿が周辺の村々と協力して接待茶屋を継続することにしました。しかし、やってみると年間六・七十両もの経費がかかり、財政が窮乏していた三島宿では数年間しか継続させることができなかったようです。三島宿などの宿場町やその周辺の村々は、街道での公的な人や荷物の運搬を無料または低賃金で請け負わなければなりませんでした。幕末になるに従い東海道の交通量は増大し、その負担により三島宿の借金も増大
してとても接待茶屋の運営まで資金を回すことができなかったようです。
箱根東坂・和田峠・碓氷峠の三カ所の接待茶屋も幕末から明治初頭までに閉鎖されます。西坂では文久二年(1862)と文久四年に山中新田の組頭(村役人)で接待茶屋の実際の運営に深く関わっていた津田政右衛門を中心に再興が計画されますが、失敗に終わりました。
ただし、西坂については明治十二年に農村改良運動が元となった宗教団体である八国性理教会(はちこくせいりきょうかい)によって再興され、最後は個人経営になりながら昭和四十五年まで続けられました。その名残は現在でも「接待茶屋」というバス停の名前に見ることができます。
▲大正時代の接待茶屋
【広報みしま 平成31年4月1日号掲載記事】
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