歴史の小箱
(第377号)箱根八里の難所と三島宿の伝馬役(令和元年10月1日号)
郷土資料館では、12月15日まで企画展「絵図・古文書で見る箱根八里」を開催しています。今回はこの企画展に関連して箱根路を往復した三島宿の伝馬役についてご紹介します。
江戸時代の三島は東海道の宿場町のひとつでした。箱根西麓にあり、箱根越えのスタートまたはゴール地点として多くの旅人でにぎわい、繁栄していました。その一方、宿場町の住民には公的な人・モノを無償または低賃金で運ぶことが義務付けられていました。これを伝馬役といいます。また、宿場周辺の村々には伝馬役を補助する役割があり、これを助郷役(すけごうやく)といいました。この助郷役も低賃金で引き受けなければなりませんでした。
このようなあまりお金にならない労働を進んで引き受ける人はそう多くありません。とくに三島宿と近郷の人々は馬を曳いて、または、荷物を背負い、険しい箱根路を往復しなければならず、大変な苦労をしていたようです。そのため、伝馬役などの負担のために貧しくなり、中には破産してしまう人もいたようです。
どの宿場町でも、幕府などに対して伝馬役・助郷役が大変なので負担を軽くしてほしい、資金援助や貸付けをしてほしい、といったお願いをしています。そのようなとき、三島宿や周辺の村々では請願書などの文書に箱根路の伝馬役がいかに大変かを表現する文言を必ず入れて、三島宿の特殊性をアピールしていました。
例えば、享保17年(1732)に三島宿の助郷村六十八ヶ村は助郷役の実施方法の変更などについて幕府宛てに請願書を出しています。その中には「三嶋宿助郷之儀ハ余宿ニ替り箱根八里の難所」という表現があり、三島宿は他の宿場と違って箱根八里の難所を往復しなかればならず、助郷役が非常に大変である、と訴えています。
他の文書を見ても、「他の宿では1~2両程度で買える馬でも伝馬役ができるが、箱根の坂を往復する三島宿では5.5~6両するよい馬が必要である」とか「箱根での荷物の運送には平地に比べて1.5倍の人員を使っている」など、様々な切り口で箱根路の大変さを訴えています。
このような請願書では負担の軽減や資金援助を得るために誇張した表現が使われることが多いようです。しかし、実際に「風雨・雪の中、大暑の節に馬が倒れているのを度々見ている」という山中新田の住民の記録もあることから、ある程度の誇張があると割り引いて考えても、東海道随一の難所の往復が大変な仕事であったことは疑いないでしょう。
▲幕府宛ての請願書「乍恐書付を以奉願候御事」
【広報みしま 令和元年10月1日号掲載記事】
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