歴史の小箱
(第380号)地域の歴史「多呂」(令和2年1月1日号)
今回は中郷地区のうち多呂(たろ)と、その地名の由来となった多呂氏とその屋敷があったとされる祇園山(ぎおんやま)を紹介します。
多呂の集落は、大場川の左岸、箱根山西麓に位置します。かつてこの地域は大場川の水害の常襲(じょうしゅう)地帯でした。そのため、神明神社は寛文9年(1669)に川のそばの平坦地から現在の多呂東山山上へと遷座(せんざ)しています。また、通称「亥の満水(いのまんすい)」とよばれる寛文11年の大洪水が起こったことを契機に、集落も平坦地から神明神社そばの山裾へと移住したといわれています。
多呂の地名は南北朝時代から戦国時代にかけて、多呂郷・田呂郷・多留郷・棰之郷として諸資料にみられるようになります。約200年前の地誌「豆州志稿(ずしゅうしこう)」によると「此村ハ奉幣使在庁(ほうへいしざいちょう)居リシ処、在庁ハ多呂氏ナリ、遂ニ村名トナル、今在庁ノ屋敷アリ」とあり、「多呂氏」が居住したことから、多呂氏の名を村名とするようになったとされています。それ以前は大場、北沢と共に佐婆(さば)郷(沢の郷)と呼ばれていたようです。
多呂氏は江戸時代まで在庁の役を勤めました。ここでいう「在庁」とは、伝承によると源頼朝が定めた奉幣使であったといわれています。
多呂氏の屋敷は集落の北側で、北沢との境にあたる伊豆箱根鉄道駿豆線東側、箱根山西麓から伸びる丘陵の先端部にある「祇園山」にあったといわれています。「三島市遺跡地図」には中世の城館跡である「多呂館」として登録されていますが、発掘調査は行われていないため、詳しいことはわかっていません。また、「豆州志稿」古蹟(こせき)部によれば、「在庁多呂氏歴世居住の地」として多呂の祇園山を載せたのち、「在庁職」は谷田村御門、安久村多呂、中島村城之内に移転したと記されています。安久には「多呂村」という小字があり、安久の近世の村絵図に在庁屋敷跡と思われるものが記載されていることから(安久杉山家文書)、村絵図作成時には多呂氏は安久に移動していたと考えられます。
この祇園山は現在、墓地となっています。江戸時代まで多呂の人々は田種寺の檀家でしたが、廃仏毀釈の気運が高まり、明治4年に北沢と共に全村あげて神道に宗旨替えしました。以降、祇園山に共同墓地を設け、神葬祭を行っています。当時の多呂の地主太原真平は、村人のために所有地である祇園山を墓地用地として寄贈しました。昭和42年10月、墓地入口に太原真平翁の功徳碑が区民の手により建てられ、現在多呂公民館横にあります。
現在墓地となっている祇園山(北沢より撮影)
【広報みしま 令和2年1月1日号掲載記事】
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