歴史の小箱
(第376号)地域の歴史~幸原(こうばら)~(令和元年9月1日号)
今回は三島市北部に位置する幸原にスポットをあて、病平癒(やまいへいゆ)で信仰を集める耳石(みみいし)神社について紹介します。
江戸時代後期成立の伊豆国(いずのくに)の地誌『豆州志稿(ずしゅうしこう)』によれば、大場川(境川とも称す)を挟んで南西に位置する幸原(現在の末広町を含む)と、北東に広がる徳倉とは、もともと一つの村だったといいます。徳川家康が将軍職に任じられた翌年にあたる慶長9年(1604)の日付をもつ古文書に「幸原之村(こうばらのむら)」と見えるので、遅くとも江戸時代初めには、徳倉と分かれて一村として成立していたのでしょう。
なおこの「こうばら」という地名に関し、幸原の氏神社である耳石神社に伝来した明暦4年(1658)の棟札(むなふだ)(創建や修理に際に棟木に打ち付ける札)に、「国府原(こうばら)」という漢字が用いられています。「国府(こくふ)」とは、古代社会において国庁(こくちょう)(国ごとに設置された役所)が所在した地を意味した言葉で、「原」は広く平らな地を意味する漢字です。古代、三島の地には伊豆国の国庁が置かれていたため、そのことにちなんで、「国府原」と名づけられ、「こくふ」の音(おん)が「こう」に変化し、縁起のよい「幸」の字が当てられて、現在の「幸原」という地名になったのではないか、と考えられています。
さてこの幸原には、「耳の病に霊験あり」として信仰を集める耳石神社が鎮座しています。祭神は、天地開闢(かいびゃく)に際して出現した国狭槌尊(くにのさづちのみこと)という神様で、土地を司(つかさど)るといわれています。同社の例祭は9月16日に行われ、毎年子ども会による神輿やシャギリが賑わいをみせています。
▲拝殿の階段左側に安置された耳石
神社名になっている「耳石」というのは、拝殿の階段向かって左側に安置された注連縄(しめなわ)が張られた岩のことです。これまで耳の病を患(わずら)った多くの人々が、この岩に病平癒を祈ってきました。無事治ったあかつきには再びこの社を詣で、穴を開けた小石を糸で吊るし、神様にお礼を申し上げる習わしです。穴の開いた小石を「耳石」と呼んでお地蔵さんなどに供え、耳の病などの平癒を祈願する信仰は、全国に見られます。この耳石神社もそうした信仰に深く関わるものなのでしょう。
現在も時折、耳石の霊験を求めて遠方から参詣に来られる方があり、拝殿の階段向かって右側にある岩の背後には、人々のお礼の気持ちがこめられた小石がたくさん吊るされています。
▲御礼詣りの人々が小石を吊るす
【広報みしま 令和元年7月1日号掲載記事】
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