歴史の小箱
(第390号)地域に残された災害の記録 関東大震災(令和2年11月1日号)
今回は企画展「三島を襲った災害と復興」にちなんで、関東大震災について紹介します。
大正12年(1923)9月1日に起った関東大震災は、東京など首都圏が大惨事となった地震として認識している人も多いと思いますが、実は静岡県東部にも大きな被害をもたらし、死者行方不明者計443人、建物全壊・全流失計2,959軒を数えます。三島市域(当時は三島町・北上村・錦田村・中郷村)でも4名の人が亡くなっています。
この時大きな被害を受けた地域のひとつである大場地区には、当時の様子を詳細に記録した「震災関係書類綴」が大切に保管されています。
記録によると、その日は朝からの悪天候が9時頃には回復し、すっかり秋晴となった同日午前11時58分、突然「物凄キ地響キト共ニ」強震が襲い、その後も余震が断続的に続きました。大場では「殆ド一軒トシテ満足ナル建物ヲ見ザル」ほどの大惨事となり、わずか13歳と2歳の2人が犠牲となりました。その夜は消防組(しょうぼうぐみ)と義勇警察隊が火災と盗難の警備にあたり、避難所がまだ設置されていなかったため住民は各自避難して不安な一夜を過ごしました。
翌2日には大場神社、大場駅など5か所に板囲いの応急避難所が設けられ、3日には県によって大場に「半永久的な」臨時避難所が建設されることになりました。この頃から復旧作業も本格化し、4日には大工・左官・瓦職人・とび職などの職人を役場が雇い入れ、復旧作業を行うことになりました。
またこの頃から、東京方面など他地域の情報が次第に伝わるようになりました。被害の様相のみならず流言飛語の類も伝わったのか、火災・盗難の警戒に加えて「不逞鮮人(ふていせんじん)ノ取締」を行うことが決議されています。何者かを捕らえた記述は書かれておらず、7日後の11日夜をもって取締は「一時休止」となりました。
9月10日頃から寄付で集まった救援物資や義援金の分配についての記録が登場し、借入方法など復興資金面の記録が多くなっていきます。次第に記録の頻度がさがり、翌年2月8日を最後に「震災記録」は終わっています。
関東大震災のような首都圏直下型地震は、近い将来高い確率で起こると想定されています。昭和5年(1930)の北伊豆震災では、関東大震災後の耐震補強が被害を軽減した例が確認されています。今回の企画展が、皆
さんが家庭の防災を今一度見直すきっかけになれば幸いです。
関東大震災東海道三島町の惨状(関守敏氏所蔵)
関東大震災東海道三島町の惨状(関守敏氏所蔵)
【広報みしま 令和2年11月1日号掲載記事】
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