歴史の小箱
(第392号)地域の歴史 壱町田(令和3年1月1日号)
今回は、沢地川が大場川に注ぐ地域に位置する壱町田(いっちょうだ)について紹介します。
江戸時代の壱町田は伊豆国君沢郡内の村の一つであり、三嶋大社の神領でした。江戸時代の地誌『豆州志稿(ずしゅうしこう)』によると、この地は元来、沢地村に属していましたが、慶長9年(1604)十二月に沢地村から一町歩(ちょうぶ)の田地を分割して三嶋大社の神領となり、壱町田という地名が付けられたといいます。
明治24年(1891)には戸数20軒、人口148人として記録されています。かつては「壱町田十七軒百姓」といわ
れ、戸数は近世から大正にかけて20軒前後でした。
壱町田の農民は沢地川の水を利用して水田を切り開いていき、沢地川両岸には豊かな水田地帯が広がっていました。しかし水田面積は少なく、長く畑の開墾に努めました。千枚原、光ケ丘一帯は明治~昭和初期に畑となり、主として野菜・桑、後には甘藷(さつま芋)が栽培されていました。
村の物産として特筆されているのは「胡羅葡(にんじん)」で、「質紅色、鮮にして味最好し」と評され、年間生産量は1万2千貫目(45トン)あり、県中・西部に出荷されています。当時は現在見られる短根種(三島人参)ではなく、長根種が作られていました。
そんな田園風景が広がっていた壱町田は昭和30年代の千枚原団地の開発に始まり、急速に進んだ都市化よって住宅の建ち並ぶ宅地へと変化しています。
さて、壱町田の田畑は沢地川から引き入れた農業用水に支えられ、いたるところに用水路が設けられていました。これらの用水のなかにトンネルを通り祇園原(ぎおんはら/加茂川町)まで続く「祇園原用水」と呼ばれる用水があります。この用水は安政2年(1855)三嶋大社宮司の矢田部盛治が神領地であった祇園原一帯の畑地を水田化する計画をたて、造られたものです。
当初造られた水路は杉丸太の芯をくり抜き、接ぎ合わせた188メートルもの木樋であったと言われています。さらに慶応4年(明治元年、1868)、盛治は壱町田の農民に祇園山山腹を抜ける祇園原隧道を掘らせました。当時の名主望月清一ほか壱町田の農民は苦労の末、緻密な調査のうえに行われたこの大工事をわずか四カ月で完遂させました。矢田部家も望月家もこの工事のため、相当な借金を負ったと伝えられています。。
現在残っている水路はコンクリート造りの洗堰(あらいぜき)で、沢地川左岸で取水し、所々の暗渠を通り、その先約250メートルのトンネルで祇園原へ抜けています。近隣の人の話によると、現在は使われていないようですが、昔はその水路やトンネルは子どもたちのあそび場で、よくザリガニやカエルを捕まえて遊んでい
たそうです。トンネルには入れませんが、草に覆われ見つけづらくなっている水路を探してみてはいかがでしょうか。
八幡神社からみた壱町田(1987年撮影)
現在の祇園原用水の水路
【広報みしま 令和3年1月1日号掲載記事】
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