歴史の小箱
(第259号)伊豆箱根鉄道史 (平成21年12月1日号)
今回は、伊豆の国市文化財保護審議委員の桜井祥行さんに伊豆箱根鉄道の鉄道史について解説していただきました。
伊豆箱根鉄道の開通は明治三十一年(一八九八)になります。当時の三島駅は現在の下土狩駅で、そこから南條駅(現伊豆長岡駅)まで鉄道を敷設しました。翌年には大仁駅まで延長するわけですが、どうして現在の下土狩駅がその当時出発駅となったのかというと東海道線が御殿場経由で敷かれていたからです。
当時の鉄道技術ではトンネル工事はまだ未熟で、熱海~三島間の丹那トンネルを開削することができませんでした。三島の街は江戸時代から東海道の宿場町として栄え、樋口本陣や世古本陣(現在の本町ビルあたり)を中心として旅籠(旅館)が並んでいました。現在の御殿場線が当時の東海道線をさし、その中で下土狩駅あたりの
位置をもう少し三島寄りに開設することも可能だったわけですが、当時は鉄道の重要性もよくわからなかったため、新駅誘致運動は起こりませんでした。
ところが明治二十二年(一八八九)にいざ東海道線が開通するや、予想以上の人や物資が流通し、三島の街は一気にさびれてしまいました。あわてた三島の有力者たちは三島停車場設置請願委員を設け、東海道線上に路線始発駅を新たに設置し、それにつながる鉄道建設運動に走りました。そこで豆相鉄道株式会社を創立した小山田信蔵と交渉し、路線始発駅を従来からある沼津駅ではなく、新たな三島駅(現下土狩駅)を設置するならば三島町の一万坪を無償提供する条件を出し、契約にこぎつけました。ところが三島町の駅をどこにするかで町内が二分もめにもめました。結局請願委員の河辺宰兵衛や三浦丈八郎、花島兵右衛門たちが間をとりもち、現在の三島田町駅を三島町の駅として設置することに決定しました。
こうして明治三十一年(一八九八)五月二十日に三島~南條間が開通しました。この時の設置駅は、三島駅(現下土狩駅)、三島町駅(現三島田町駅)、大場駅、原木駅、南條駅の五駅でした。翌年の七月十七日には大仁駅まで終着駅を延長し、その間に田京駅を設置しました。
その後、韮山駅や伊豆仁田駅が設置され、大正十三年(一九二四)八月一日には修善寺駅まで終着駅が延長され、今日に至っています。
昭和九年(一九三四)に丹那トンネルが開通することで、熱海~三島間が開通し、今日の東海道線に路線が変更することにより、これまでの三島駅を下土狩駅とし、現在の三島駅を始発駅とした伊豆箱根鉄道となりました。
昭和40年代の伊豆箱根鉄道(株)伊豆箱根鉄道提供
(桜井祥行)
【平成21年 広報みしま 12月1日号 掲載記事】
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