歴史の小箱
(第99号) ~太陽暦採用の啓蒙書~ 福沢諭吉の『改暦弁』 (平成7年10月1日号)
三島は暦の町でした。古くから三嶋大社の社人だった河合家により「三島暦」は編纂され、伊豆の国や相模の国をはじめ、関東一円諸国に領布されてきました。東海道宿駅中に三島の名を知らしめたのは、三島暦の領布によるものだったといっても過言ではありませんでした。
このような伝統ある「三島暦」の冊子の表紙から三島という文字が消えたのは、明治6年の暦からでした。太陽暦の採用が始まったからです。
約2世紀半にも及んだ鎖国政策を解き、諸外国への門戸を開いた明治新政府にとって、列国との対等な外交は必須の条件でした。特に日付の異なる旧暦は障害となり、これの改編は急を要する課題となっていました。しかし、長年慣れ親しんできた旧暦を捨て去ることは、日本国民全体の感情として容易に受け入れられない問題でした。すなわち、旧暦は人々のあらゆる生活の指針であり、これなくしては明日の行方もままならないという事態に陥るかも知れないという危惧が大きかったからです。改暦問題は、はからずも「暦無くしては生きられない日本人」という姿を露呈する結果を生みました。このような古い生活感情を厳しく批判し、新しい考え方、生き方を強く解いた人物が居ました。
慶應義塾創設の人、福沢諭吉でした。
『改暦弁』は、明治5年11月官許を得て、明治6年1月1日付けで慶應義塾から発行されました。福沢は著書の巻頭部分の「太陰暦と太陽暦の弁別」の最後に次のように述べ、改暦の意味あることを説いています。
「日本国中の人民此の改暦を怪しむ人は必ず無学文盲の馬鹿者なり、これを怪しまざる者は必ず平生学問の心掛けある知者なり、されば此の度の一条は日本国中の知者と馬鹿者とを区別する吟味の問題というも可なり」
改暦に懐疑心を持つ者は「馬鹿者」とは恐れ入るが、当時の最新思想家福沢ならではの率直な意見であったのでしょう。
(広報みしま 平成7年10月1日号掲載記事)
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