歴史の小箱
(第93号) ~三島の成り立ちが分かる~ 「三島歴史地形図」 (平成7年4月1日号)
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歴史の成立と自然環境は深く関わっています。旧石器や縄文の原始古代は、人々は生命の安全と食料を確保することを第一として丘陵地帯に生活の拠点を求めました。箱根山西麓は、そうした点、絶好の場所でした。この時代の遺跡が箱根山西麓に集中して見られるのは、この事を物語っています。
豊富な水を利用して水田用水にしたり、飲料水にしようとしたのは弥生時代以後の事とされます。現在日清プラザの建つ「奈良橋向遺跡」からは弥生時代の水田遺構や住居跡が発掘され、この地が三島の初期農耕地であることが確認されました。地形図を見ると、御殿川流域の低地(海抜16m)に当たり、自然の流路を利用しようとした当時の人々の考えが理解できます。
農耕によって蓄えができ、経済基盤が整ったところで、集落はムラからマチへと発展します。小浜山(楽寿園北側附近・海抜31m)を背景にひかえ、湧水池にあふれる清れつな水を求めて、奈良時代に創建された国分寺(海抜30m)は、伊豆の国府の象徴的な建造物だったと想像されます。
古く、三嶋大社は明神様と呼ばれ、伊豆一円の人々の信仰を集める中心的な存在でした。三嶋明神が当地に鎮座(海抜27m)したのも前期のような地域経済基盤の確立に伴っての事だと思われます。鎮座の時代については諸説があり明らかではありませんが、三島という地名は明神の鎮座に由来するものと考えられています。三島はこの三嶋明神を要にして、南北(下田街道、甲州街道)と東西(旧鎌倉街道)に延びる4本の道で発展してきました。
「歴史地形図」で、こうした道や水(水源地や川)と三島の史跡や遺跡との関わりを発見して見て下さい。
(広報みしま 平成7年4月1日号掲載記事)
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