歴史の小箱
(第91号) ~日本第1号太陽暦~ 明治6年 太陽暦 (平成7年2月1日号)
暦の語源には、こよみは「日読み」であり、毎日の吉凶を読むことにあるという説があります。ところが、現在、暦という呼び方をする人は少なく、むしろカレンダーが一般的な呼称となりました。カレンダーは西洋から入ってきた暦で、その語源は、新月の出る時刻(月の初め)を丘の上で確認して、大声で人々に知らせたこと(これをカレオという)にあるといわれます。
ところで、私たちがふだん何気なく使っているカレンダーは、いつから日本に入り、使用されるようになったものでしょうか。
一冊のカレンダー(写真)があります。表紙には「神武天皇即位紀元2533年明治6年太陽暦」とあり、「暦局検査之印」の朱印と、朱の「第一番」という文字が書き込まれ、そして値段の「定價貳匁【ていかにもんめ】」が黒字で刷り込まれています。これは、明治6年(1873)に、明治政府によって、日本で最初に発行された日本第1号の太陽暦です。
明治5年以前、日本では太陰太陽暦に基づいた「旧暦」が使われていました。すなわち、月ごとの日数は月の運行に合わせた29日か30日(大か小)とし、これに約3年に一度の閏年を入れることによって地球の公転日数を調節した太陽暦を組み合わせて、季節のずれを防ぐ暦が、長い間日本人に親しまれてきた旧暦でした。
ところが、鎖国時代に終わりを告げた明治新政府樹立の頃、世界の列強諸国の暦事情は太陽暦時代でした。当然のことながら、日本の旧暦と、諸外国が使っていた太陽暦とは日付に相違があります。これは外交的に大変不便でした。そこで新政府は、こうした日付差を埋めようと太陽暦採用を考え始めました。福沢諭吉の「改暦弁」は旧暦に慣れ親しんだ日本人を痛烈に刺激する啓蒙書となりました。
こうして、明治政府は「明治5年12月3日をもって明治6年1月1日とする」という、思い切った改暦が断行されることになり、明治5年の年末近くなって、新太陽暦が、急きょ、出版、頒布されました。この改暦によって、逼迫した財政事情を抱えた明治政府の苦心談や、改暦のために職を失った各地の暦師の迷惑談など、様々なエピソードが生まれました。
(広報みしま 平成7年2月1日号掲載記事)
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