(第183号) 顕長の壺(三ツ谷新田出土) ~浄土を願う信仰~ (平成15年8月1日号)

顕長の壺
 今からおよそ900年前、我が国は末法の世に入ったと信じられていました。人々が頼みとしていた大寺院、興福寺、延暦寺などは抗争を繰り返し、戦乱や災害で、まさに世も末の状態だったのです。
 人々は極楽浄土を願い、寺院の建立、経の書写、埋納経などの他、盛んに仏典の法会を開催します。
 この頃、多くの人々に富士山信仰を広めた人物に富士上人末代(まつだい)がいました。富士山に登ること数百度、山頂に「大日寺」という仏堂を建てたと伝えられています。
 末代上人は経の書写とその富士山への埋納を人々に勧め、関東東海地方や京の都の庶民に勧進してまわりました。当時権勢を奮っていた鳥羽法皇も久安(きゅうあん)5年(1149)に信者となっているのです。

 それから約800年後の昭和5年(1930)、富士山頂の三島岳(三島方向の峰)で偶然、銅経筒や、墨書紙経の破片等が発見されました。当初は鎌倉時代初期のものと考えられていましたが、陶片の年代や奥書に「末代聖人」の名が見えることから、大部分の遺物は久安五年頃の末代上人による埋納品と考えられています。
 実は三島の三ツ谷新田でも同じ時代の埋納経が出土したのです。

 昭和7年(1932)、松雲寺と川を挟んで北側の尾根の畑を耕していた高木親子は鍬(くわ)の先に素焼きの陶器を発見します。頸部(けいぶ)を打ち欠いてありますが、ほぼ完全な形を保ち、表面に「三河守(みかわのかみ)藤原顕長(あきなが)」の名を含む14行の銘文が刻まれていました。刀子(とうす)、鏡、火打ち石も出土しました。
 実はこの壺とほぼ同じ銘文入りの壺または陶片が近年次々と発見されて注目を集めています。山梨県富沢町、神奈川県綾瀬市、伝鎌倉出土の壺、大アラコ窯(愛知県渥美半島)などです。
 藤原顕長は鳥羽法皇と近い人物で、三河守は1136~1145年と1149~1155の二度にわたり勤めています。顕長は鳥羽法皇の埋納経の意向をくみ、久安5年頃、三河国大アラコ窯の壺を富士信仰と関わりのある各所へ埋めたのではないかと推測されます。
(広報みしま 平成15年8月1日号掲載記事)