歴史の小箱
(第55号) 交通の町の夜明け再び昭和9年の三島駅開業 (平成4年1月1日号)
昭和九年十二月一日、三島は新東海道線(従来その予定路線を省線熱海線と呼んでいた)の開通と、それに伴う新三島駅の開業を祝う行事で沸きに沸きました。チンチン電車を花で飾り、新三島駅前に丹那トンネルを模した開通門をこしらえ、数々の電球でイルミネーション飾りを作り、町民は芸者さんの踊りに酔いました。
三島町民の喜びを表す「三島行進曲」も作られました。小田切信夫作曲、宮沢千代の作詞に拠る「称えよ丹那のこのトンネルを、祝えよ三島のこの開通を」という歌詞に、当時の町の喜びが込められています。
三島がこの時、なぜ、このように狂喜乱舞したかについては、歴史的な背景があります。
明治二十二年、先の東海道線が全通した時のことです。三島には、明治政府から、小浜山の地に「三島駅」を設置する計画が提示されていました。ところが、この時三島町民は、こぞってこれに反対しました。「鉄道などという妙なもんは、東京からドロポーばっか運んでくるもんで、宿場のためには何の益にもならん」ということが反対の主な理由でした。
しかし、いざ東海道線が開通すると、困ったのは三島の町民でした。駅が無いということはドロポーはもとより、人っこ一人来ないのが現状だったのです。そこで、あわてて豆相鉄道(現在の伊豆箱根鉄道)の誘致となります。
三島は古代から、交通の要衝の地としての発展を続けてきた町です。特に近世東海道時代には、三島宿という形で、繁栄の絶頂期を見ました。こうした交通の町を自認する三島の人々にとって、明治二十二年に東海道三島駅を逃したことは、初めてのしかも最大の屈辱でした。それだけに、丹郡トンネルの完成、それに伴う新線の開通、新三島駅の開業は、町民だれもの心からの念願だったのです。
開業の日、たくさんの打ち上げ花火が、夜空を彩ったと聞いています。
(広報みしま 平成4年1月1日号掲載記事)
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