歴史の小箱
(第215号)山本玄峰老師【2】 玄峰老師と終戦秘話 (平成18年4月1日号)
山本玄峰老師が大正四年、ちょうど五十歳の頃龍澤寺に入寺され、九十六歳でこの世を去られるまでの約五十年間に太平洋戦争の終戦という重大な局面を迎えますが、今回はその終戦にまつわる玄峰老師の語録を紹介します。
戦前日本共産党の中央委員長であった田中清玄氏は、玄峰老師の熱心な信徒の一人でした。終戦間近の昭和二十年春、老師は田中氏に「日本は大関じゃから、大関は勝つもきれい、負けるもきれい。日本はきれいに、無条件に負けることじゃ。(中略)そんな我慢や我執にとらわれておったら、日本は国体を損ない、国家はつぶれ、国民は流浪の民になるぞ」と言い、日本が早くこの戦争を終結させる事を願っていたといいます。
また政財界の要人にも信徒の多かった老師は、当時枢密院議長で総理就任を打診されていた鈴木貫太郎氏に「力で立つものは力で滅びる。金で立つものは金で滅びる。徳で立つものは永遠じゃ。一国の総理になる人は、世の中の善い面も、悪い面も知り尽くした人でなければ勤まらぬから、あなたのように素直な、正直な人には向かないが、こういう非常時にこそ、金も名誉も要らぬ尽忠(じんちゅう)無私(むし)の人が要るのです。」と、就任を勧めたといいます。また、就任後の鈴木首相に対して、終戦を決定する御前(ごぜん)会議の直前に「これからが大事な時ですから、耐え難きを耐え、忍び難きを忍んで、体に気をつけながらやって下さい」という手紙を送ったといいます。これが終戦詔書として玉音放送で流された「堪え難きを堪え忍び難きを忍び」の文言になったとも言われています。
終戦後の憲法制定の際にも「わしは、天皇が下手に政治や政権に興味を持ったら、内部抗争が絶えないと思う。(中略)天皇は空に輝く象徴みたいなものだい」と、当時憲法改正委員会のまとめ役であった楢橋渡氏に語り、これが「天皇は、日本国の象徴であり日本国民統合の象徴」という条文に影響を与えたとも伝えられています。
戦後六十年が過ぎ、戦争を知る方々も次第に減りつつある中で、憲法についても様々な議論が現在なされております。今こそ玄峰老師が我々に提言された意味を再考する時ではないでしょうか。
【平成18年 広報みしま 4月1日号 掲載記事】
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