歴史の小箱
(第220号)山中城合戦 戦国時代最大の攻城戦(平成18年9月1日号)
山中城は、箱根山中腹の標高五八〇メートルにある戦国時代末期の城郭です。小田原城を本城とする後北条
氏が、箱根道の制圧と、領国の国境警備を目的として築いたもので、軍事的性格の強い城でした。昭和九年、
国の史跡指定を受け、昭和四八年から、約二〇年間にわたって発掘調査と環境整備が行われ、現在、史跡公園と
して一般に公開されています。
この山中城が歴史の舞台に登場するのが、天正一八年(一五九〇)、豊臣秀吉との間に行われた山中城合戦です。全国制覇を目論む秀吉は、その総仕上げとして後北条氏の征伐に向かったのです。
三月二九日、早朝、山中城を豊臣軍約七万人の軍勢が取り囲みました。右翼に池田輝正以下二万人、左翼に徳川家康以下三万人、そして中央に総大将の豊臣秀次以下、中村一氏、一柳直末、山内一豊、堀尾吉晴など、総勢二万人と三手に分かれて布陣しました。
これを迎え撃つのは、城主、松田康長、援将、北条氏勝、間宮康敏以下、約四千人の将兵で、その差はなんと一七倍もありました。
戦いは岱崎(だいさき)出丸(でまる)と西櫓から開始され、壮絶な銃撃戦が展開されました。中でも先鋒の一柳隊は壊滅的打撃を被り、直末自身、流れ弾により戦死を遂げました。一方、中村隊も岱崎出丸に執拗な攻撃を繰り返し、渡辺勘兵衛が一番乗りを果たすと、戦いの場はやがて二ノ丸、本丸へ移り、圧倒的な数の前に守備兵は程なく壊滅、城主松田康長も戦死して、正午過ぎには山中城は落城したものと見られます。両軍の戦死者約二千人とも考えられており、戦国時代最大の攻城戦と言われています。
城攻めは、攻める側の被害が甚大であるため、山中城に見られるような力攻めはしないのが普通です。ではなぜこのような凄まじい戦いになったのでしょうか。そこには、小牧・長久手(ながくて)の戦いの汚名をそそごうと
する、秀次の決死の覚悟があったものと見られます。そして、秀吉の見ている前で、功名を上げようとする秀次の宿老達の奮戦があったからに他なりません。天下の形勢は既に決しており、彼らには、この戦いが功名を上げられる最後の場となるかもしれないという思いがありました。出世レースに勝ち残ろうとする武将達の悲痛な思いが伝わってきます。
【平成18年 広報みしま 9月1日号 掲載記事】
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