歴史の小箱
(第313号)三島宿 借金とその返済 (平成26年6月1日号)
開催中の企画展「三島宿を支えた人々 三島問屋場・町役場文書から」に合わせ、江戸時代、三島宿の中心的な施設であった問屋場に残された資料を紹介します。
江戸時代の宿場は幕府や諸大名の公的な人やモノの輸送を無料または低額の料金で請負う義務がありました。そのため宿場の財政は常に苦しく、幕府から拝借金(借金)をすることも度々でした。 また、三島宿は強い西風のために大火になりやすく、その復興のために借金をすることもありました。
下の写真は、三島宿が幕府から借金をした際の経緯を記したものです。
乍恐以書付奉願候御事おそれながらかきつけをもってねがいあげたてまつりそうろう 享保2年
元禄七年(一六九四)、三島宿は大火に見舞われ、その復興資金として元禄十年に拝借金千両が代官より渡されました。大火から三年かかっており、そのあいだ宿場はずいぶん困窮していたようです。
この時、七五〇両は家屋の再建などのために使い、残りの二五〇両は代官が預かり近隣の村々へ貸付けて利殖(利子・利益によって財産をふやすこと)し、元金千両に戻すことになりました。元金二五〇両を年利十五%で貸付けていけば複利計算で十年後には約四倍になり、千両に達する計算です。
拝借金を使い切らずに、一部を基金として利殖を行うなどしっかりした返済計画を立てています。しかし、実際にはその後、宿場の資金難を切り抜けるために元利金を取り崩すなど、計画通りには進みませんでした。
それでも、十六年目の正徳三年(一七一三)には元利金一一三六両となり、目標の千両を超えました。
これ以後、年十五%の利息は助成金として宿場に渡されるはずでした。(宿場ではそのように認識していたようです。)しかし、その後、五年間助成金は渡されませんでした。そのため、正徳三年から享保元年(一七一六)まで四年間の利息分を助成金として受け取りたいとして、享保二年、代官に対し訴えを起こしています。
この文書からはその後のことはわかりませんが、四年間も助成金が交付されなかったことから単なる事務的な手違いではなく、代官側では千両たまった時点で返済金として受け取った、という認識だったのかもしれません。
【平成26年 広報みしま 6月1日号 掲載記事】
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