歴史の小箱
(第320号)江戸時代の棹秤と秤座 (平成27年1月1日号)
長さや重さなどの「単位」の安定は人々の生活や経済活動に欠かせないものでした。徳川幕府も社会の安定のため、単位の統一と計量器具の統制を図ります。当時、重さを量る道具には桿秤と天秤があり、幕府は桿秤における秤座の特権を江戸の守随家と京都の神家に与えました。これにより両家は製造・販売・修理を独占し、秤の検査として秤改を実施しました。
守随家・神家はそれぞれ東西三十三カ国を管轄していました。伊豆国は守随家の管轄する東国三十三カ国に含まれています。
写真①は銀の粒などの小さなものを量る銀秤と呼ばれるもので、百六十匁(六百グラム)まで量ることができるものです。皿の部分に「御秤屋 天下一 守随(花押)」とあり(写真②)、守随家によって製作されたものであることがわかります。錘を見てみると、 一文字目が読み取りにくいのですが「□得( 花押)」と刻まれています(写真③)。十七世紀後半の守随家に「正得」という当主がおり、これを指していると思われます。また、「天下一」の刻印は元禄年間(一六八八~一七〇四)の初めごろに廃止しています。これらのことから、この秤は今から三百年以上も前の江戸時代前半に作られたものだとわかります。現在、江戸時代以前の秤はほとんど残っていないため、この秤はたいへん貴重なものだと言えそうです。
写真④は神家の銀秤のケースです。瓢箪型になっていて、よく見るとたくさんの印が押してあります。この印は秤座による秤改の時に検査に合格したものに押される「改印」です。秤改は非常に権威があり、検査料や不合格の際の修繕料も安くはなかったため、秤改を受ける町や村の住民は苦労したそうです。
「改印」は数年~二十年程の間隔で行われる秤改のたびに変更され、このケースに押されているもののうち確認できた最も古いものは享和元年(一八〇一)のものでした。通常は秤そのもの(皿や桿の部分)に押されるものでケースに押す必要はありません。しかし、このように改印が押されたケースはよく見られるようで、秤の装飾と権威づけのために持ち主が頼んで押してもらったのではないか、と言われています。
【広報みしま 平成27年1月1日号掲載記事】
歴史の小箱(2014年度)
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