歴史の小箱
(第321号)江戸・明治の棹秤の錘(平成27年2月1日号)
江戸時代、重さを量る道具には桿秤と天秤がありましたが、天秤は両替商のみが使っていたため、多くの人にとって重さを量る道具といえば桿秤でした。(写真1)
【写真1 棹秤】
天秤に使うおもりを「分銅」、桿秤のそれを「錘」といいます。一つの天秤に分銅は複数必要ですが、桿秤は錘を左右に動かして使うため、一個で足ります。
桿秤は守随家・ 神家というふたつの家が「秤座」として秤の製造・販売などを独占していました。そのため、桿秤やその錘には「守随」や神家初代の名である「神善四郎」といった秤座の刻印が押されています。(写真2・3)
【写真2 守随の刻印がある】
【写真3 神善四朗の刻印がある】
ただし、両家で日本中で使われる秤を作ることは不可能だったため、各地に出張所が作られていました。県内では、駿河府中(現静岡市)に守随家の出張所がありました。
明治に入ると秤座の特権は廃止され、各県に一人ずつ秤の製作請負人が定められます。守随家・神家も東京・京都の請負人となり、全国への影響力はなくなります。影響力はなくなっても、出張所を含めた秤座の関係者かその縁者などが製作請負人となる例は多かったようです。
当時の静岡県(現在の県中部)は、秤座の出張所であ た河瀬家が秤の製作請負人になり、秤の製作を継続し、現在も「河瀬衡器製作所」として営業を続けています。河瀬の社章は重さを量る道具の象徴といえる「後藤分銅」を3つ組み合わせた形をしています。「後藤分銅」とは江戸時代に作られた天秤用の分銅のことで、当時は京都の「後藤家」のみに製造が許されていたことからこう呼ばれていました。また、江戸時代に両替商が使っていたことから銀行の地図記号に、この分銅の形が採用されています。(図1)
【図1 銀行の地図記号】
明治以降の錘に、この河瀬家の社章の付いたものを見つけることができます(写真4)
【写真4 河瀬家の社章】
【広報みしま 平成27年2月1日号掲載記事】
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