歴史の小箱
(第400号)地域の歴史―八反畑(はったばた)―
今回は八反畑地区の歴史をご紹介します。
八反畑は、三島市街を南流して大場川に合流する御殿川の中流域西側に広がる集落です。江戸時代には石高(
(こくだか)が175石余で、比較的小規模な村でした。当初は幕府領でしたが、江戸時代後半の文化8年(1811)以降は沼津藩領となりました。江戸時代から明治22年(1889)までは八反畑村でしたが、その後周辺諸村と合併し中郷(なかざと)村になり、昭和29年に三島市と合併しました。
ところでこの「八反畑」、初めて見た人にはなかなか読めない、ちょっと変わった地名ですね。江戸時代に編纂された『豆州志稿(ずしゅうしこう)』によれば、元は「八段畑」と記されており、文字通り8段(8段の段々畑もしくは段・反は昔の面積の単位で1反は約1000平方メートル、八反の畑)の畑があったことから呼ばれていた地名が後に村名になったものとしています。「八反畠」と書かれることもありました。中世には隣の鶴喰郷(つるはみごう/鶴喰村)の一部でしたが、天正11年(1583)に甲州(現在の山梨県)から渡辺氏が移り住み、一村として独立したと伝えられています。
八反畑出身の人物には、幕末から明治にかけて活躍した箕田寿平(みたじゅへい) がいます。彼は天保11
年(1840)、八反畑の名主・渡辺万介(わたなべまんすけ)の息子として生まれ、分家して箕田を名乗りました。15歳のとき三島宿で漢学塾を開いていた福井雪水(ふくいせっすい)に弟子入りし、漢学や漢詩を学びました。その後江戸へ出て、三島出身で当時江戸俳諧の中心で活躍していた孤山堂卓郎(こざんどうたくろう)のもとで俳諧を学びました。師匠の名を継ぎ、俳人・孤山堂凌頂(こざんどうりょうちょう)として俳諧研究会を主宰し、俳諧雑誌を出版するなど俳句の振興に尽くしますが、「箕田寿平」としても多くの活躍をします。戸長(こちょう/明治時代の公職で村長のような立場)などの職務についたほか、豆相(ずそう)鉄道(現在の伊豆箱根鉄道)の敷設に協力し、また後素義塾(ごそぎじゅく)という私塾を開いて教育にも携わるなど、地域社会にも貢献しました。後素義塾は明治5年(1872)以降は中郷学舎として小学校となり、現在の中
郷小学校へとつながります。
彼の人柄を表すエピソードとして、最初の師・福井雪水との関係が知られています。雪水の家が火事に遭った時には家の再建に尽力し、江戸へ出てからも帰郷の際は自宅に招いて度々歓待するなど、恩師を忘れなかっ
たそうです。また、雪水が晩年に不遇となり家を失った際は、自宅に引き取って最期を看取ったほか、葬儀や埋葬の世話までおこない、弟子として生涯、礼を尽くしました。
箕田寿平肖像(画像提供:関守敏氏)
【広報みしま 令和3年9月1日号掲載記事】
【令和3年9月2日 中郷村が三島市と合併した年を修正しました。】
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