歴史の小箱
(第403号)学校教育のはじまり(令和3年12月1日号)
今回は、三島の近代的な教育のはじまりと、それに尽力した人物を紹介します。
明治5年、政府は国家の近代化を目指す上で、6歳以上のすべての男女が小学校教育を受けることを定めた学制を制定しました。これにより、三島ではそれまで伝馬所(問屋場)の跡を使っていた「開心庠舎(かいしんしょうしゃ)」という私塾を小学校にしました。これが、三島の小学校のはじまりです。伊豆地方の中でも一番早くできた小学校となり、翌年の明治6年には、官立小学校の「三島黌(みしまこう)」になりました。その
学校の初代校長が吉原守拙(よしはらしゅせつ)という人物でした。就学率は全国平均に対して男子1.8倍、女子は3.6倍という高い状況でした。
なぜ、三島は政府の方針に早く対応できたのでしょうか。
江戸時代、三島の町は東海道の宿場として非常に賑わっており、さまざまな文化や情報が往来していました。当時の問屋場の跡地を使うことで、学校の建設にかかる時間と費用を少なくできたことが理由の一つとして考えられます。
また、三島には、江戸時代から東海道と下田街道を結ぶ地点を中心に漢学塾や寺子屋という私塾・家塾がありました。
三島は地の利を活かし、教育の下地や環境が整っていたこと、文化の交流地点であったことが大きいと考えられています。
吉原守拙は、文政2年(1819)駿河に生まれましたが、幼いときに父を亡くし、母親とともに伊豆の古奈(こな/現伊豆の国市)に移り住みました。志が高かった守拙は、15、6歳半ばで江戸に行き、漢学と兵法を修めた文武両道の達人でしたので、周囲からの評判も高く、守拙のもとには志ある青年が集まりました。中でも、幕臣の山岡鉄舟(やまおかてっしゅう)やのちに静岡県令(県知事)となる関口隆吉(せきぐちたかよし)、薩摩の大山綱良(おおやまつなよし)ら政治家を門弟として輩出しています。
大政奉還後、三島へ移り、息子の吉原呼我(よしはらこが)や三島宿の指導者らと手を携え、以後26年間、
三島の教育の発展に努力しました。息子の呼我も教師となって父を支え、のちに現韮山高校の校長になりました。
守拙は、郷土の教育振興に努め、各小学校教員の育成にも携わりました。礼を重んじ、日常の挨拶もとても丁寧で、相手を慌てさせることがたびたびあったといいます。息子の呼我も社交的で暖かな人柄だったといわ
れています。
変革が求められた明治初期では、地域のため奔走した先人の情熱が郷土の学校教育を形づくりました。彼らは師弟からも大変慕われ、林光寺には吉原親子の顕彰碑が門下生により建てられています。
▲ 三島黌卒業写真(明治時代)(郷土読本「三島」2009 年より)
【広報みしま令和3年12月1日号掲載】
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