歴史の小箱
(第406号)地域の歴史―北沢― (令和4年4月1日号)
今回は中郷地区に位置する北沢(きたざわ)についてご紹介します。
北沢は、大場川の左岸に位置する地域です。東側は箱根山麓につながり、北には向山古墳群があり、錦田地区に接しています。
『三島市誌』下巻によれば、「北沢」の地名は平安時代中期に編さんされた辞書『和名類聚抄(わみょうるいじゅしょう)』に記載のある地名「佐婆郷(さばのごう/さわのごう)」に由来するといいます。佐婆郷は現在の三島市大場・多呂・中島・北沢・谷田・竹倉・玉沢および函南町上沢付近と想定されており、佐婆郷の北に位置することから「北沢(北佐婆)」と呼ばれたとされています。天正18年(1590)に豊臣秀吉が現在の三島市中郷地区および函南町周辺の村々へ宛てた文書では「北沢郷」が宛先のうちに含まれており、江戸時代以前からの呼称であることがわかります。
北沢の人々は、元々大場の赤王(あこう)神社を信仰していましたが、のちに北沢村内に分祀しました。これが現在向山小学校の南にある赤王神社です。こちらは「シャコウジンジャ」と呼ばれていますが、これは大場の赤王神社との混同をさけるためだそうです。
前述のようにこの地域は西に大場川が流れています。大場川はかつて大きく蛇行しており、流域は洪水被害が絶えませんでした。大正時代、地域の豪農が私財を投じて北沢集落に接する部分の大場川の河川改修を行い
ました。蛇行している流れを直線化し、堤防を築くという大事業です。
「北沢川改修工事平面図」(画面右側が北/原明博氏蔵)
この工事からあまり歳月の経っていない昭和16年(1941)に撮影された航空写真をみると、周辺の土地の区 画に蛇行していた大場川の跡を見ることができます。
昭和16 年撮影の航空写真(国土地理院提供)※ 図面と向きをそろえるため右 を北にしています
現在では、その後の河川改修や宅地化の進行などにより、かつての蛇行した大場川をイメージすることも難しくなりました。しかし川のすぐそばには、昔のおもかげが今も残っています。
航空写真黄点付近の現在の様子。旧流路にあたる部分が今もくぼみ、通行のために板を渡しています(写真奥が今の大場川)
【広報みしま 令和4年4月1日号掲載】
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