歴史の小箱
(第61号) ~煤【すす】けた一枚の看板から~ 接待茶屋 (平成4年7月1日号)
真っ黒に煤けた一枚の看板。その表には「永代、せったい處」の文字があり、この看板の歴史を物語っています。
江戸時代、箱根は東海道の中でも大井川と並ぶ街道の難所として知られていました。それは、箱根には関所が設けられていて手形を持たない怪しい旅人は通行できなかったことが第一の理由としてあげられますが、またここが急坂の続く極めて険しい山道だったことも、旅人を苦しめた大きな理由でした。
箱根の急坂で苦しんだのは人ばかりではありません。旅人を乗せたり、大きな荷物を背負わされた馬も、箱根の山坂では並外れた馬力を要したものです。急坂をあえぎあえぎ、口を泡だらけにしながら登ってくる馬たちを見て同情の念を抱いた一人の男がいました。
江戸の商人加勢屋与兵衛でした。与兵衛は、文政5年(1822)11月道中奉行所に宛て、一通の願書を提出します。それには「箱根山は東海一の難所で、人や馬の苦労は並大抵ではありませんから、かれらに少しずつでも慰労の食べ物の接待をしたいが、これを行うことをご許可いただきたい」とありました。
実は、与兵衛は、この年より5年前の文化14年から自ら出資した経費70両で既に接待の施しを行っていたのでした。願書の目的は、その5年の間に与兵衛の施行に感じて寄せられた200両に更に彼の300両を加えて500両を幕府に上納するから、この金の運用から生まれる利息で接待の施しを続けたいという点にありました。
このような与兵衛の努力が実り、韮山代官江川太郎左衛門の力添えもあって、山中接待所が設置されたのは文政7年11月16日のことでした。接待の内容は、「300両の一ヵ年の利息30両を経費とし、馬には飼い葉を与え、人足には焚き火を行い、粥は出さない」というものとなりました。
真っ黒に煤けた看板はそうした歴史を秘め、永く接待所に保管されてきたものです。
(広報みしま 平成4年7月1日号掲載記事)
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