歴史の小箱
(第31号) 三島出身の世界的画家 栗原 忠二 (平成2年1月1日号)
「月島の月」と題された一枚の油絵(81cm×114.7cm)が三島市の指定文化財になっています。
燃えるような空の夕陽、ほの紅く海面に映・える陽光が一艘の和船の影を弾かび上がらせます。これが果たして日本の海であろうか、印象的な風景が目に焼き付きます。
作者栗原忠二は、わが三島が生み出した世界的な画家と言えるでしょう。栗原は、明治20年10月21日久保町(中央町) の旧家に、栗原宇兵衛の次男として生まれ、県立韮山中学校(韮山高校)を経て、東京・上野の美術学校西洋美術科(東京芸術大学)に入学しました。美校在学中から彼が傾倒したのは、イギリスの風景画家ターナーの画風でした。「月島の月」は、ターナーを意識し、ターナー風の夕陽に取材して、第12回白馬会に出品するために描いた、彼の美校時代の代表作品(1909年)です。
この栗原にとって記念すべき作品は、その後、郷里の母校の三島尋常小学校(南小学校)に寄贈されました。母校の講堂の上から、この絵は何人の卒業生を見てきたことでしょうか。戦後もしばらくの間は、小学校の講堂を鋳っていたと聞きました。今、この絵を見て、懐かしい小学校を何人の人が思い出すことでしょう。
さて、東京美術学校を1912年に卒業した栗原は、同年10月イギリスに渡り、同国画壇の巨匠フランク・ブランキンに師事しました。1919年には英国王立協会の準会員に堆され、ロンドンにアトリエを持って欧州画壇に登場。1924年、12年間の渡欧生活に終止符を打ち帰国。
帰国後は、個展の開催、再渡英、帝展出品作品の制作、後進の育成など多忙な作家活動にカを尽くしています。そうした中、1926年には英国王立美術協会の正会員となる最高栄誉を受け、1936年、荻窪にて五十年という余りにも惜しい生涯を閉じたのでした。
(広報みしま 平成2年1月1日号掲載記事)
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