歴史の小箱
(第32号) 盛況だった三島の芝居小屋 歌舞伎座 (平成2年2月1日号)
昭和9年9月11日、三島町六反田の歌舞伎座に、当代一流の唄い手・廣澤虎蔵、浪花亭綾太郎の二人による浪花節の興行がかけられました。興行請元は三島の料亭の川音、魚屋の魚繋、魚秀の三人。中でも、魚繁の旦那・伊藤繁俊さん(故人)のカの入れ様は並々ならなかったといいます。興行は大成功でした。昼夜二回の公演には、三島はもとより田方や沼津の方からも大勢の観客を集めることができ、小屋のなげしには興行請元三人連名の「大入額」(写真)が誇らしげに掛けられていました。
現在では古宅の懐かしい伝承だけになってしまった歌舞伎座は小さな町にしては珍しく品のある芝居小屋として知られ、三島の町民の人気を集めていたものだったといいます。テレビもラジオもなかった時代のことです。庶民には映画を観たり、芝居を観たりということが何よりの楽しみだったのでしょう。
歌舞伎座は、六反田(現在の広小路町、広瀬通りの蓮沼川と源兵衛川に挟まれた所辺り)にありました。『ふるさとの思い出(明治大正、昭和)三島・修善寺』という写真集には、開業間もないころと思われる小屋の全景が載っています。唐破風の木戸屋根、役者の名前を書いた幟や木の札など、堂々たる本格的な芝居小屋だったようです。
隆盛を誇っていた歌舞伎座を襲った悲運は二回の火災でした。特に二回目の火事は大きく、小屋を廃業に追い込むという決定的なダメージを与えました。いわゆる「歌舞伎座の火事」で、昭和16年1月30日午前2時の出火、16棟を焼失、19世帯が焼け出されるという大災害でした。
この火事の時のことです。「火事だあ」という声を聞きつけて、真っ先に小屋に飛び込んだ男がいました。魚繁の伊藤さんでした。燃え盛る炎の中から命からがら彼が持ち出した唯一のもの、それが冒頭の大入額でした。
(広報みしま 平成2年2月1日号掲載記事)
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