歴史の小箱
(第299号)宿場の仕事を課せられた助郷の村々 (平成25年4月1日号)
今回はリニューアル後に展示予定の資料の中から元禄六年三島宿助郷書上帳を紹介します。
江戸時代の三島といえば東海道五十三次の宿場町のひとつとして有名です。箱根の難所のすぐ東にあり、伊豆一の宮である三嶋大社が位置する三島宿は東海道の中でも規模の大きな宿場町でした。
宿場町は公私の旅人に対して宿泊と運輸の機能を提供することが求められました。運輸の機能としては、隣の宿場まで人や荷を運ぶ馬や人を提供しなければなりませんでした。しかし、交通量の増大に伴いこれらの機能を宿場町だけで提供することは難しく、周辺の村々にも宿場の機能、とくに運輸部門の仕事を分担することが求め
られ、そのような村々は助郷と呼ばれました。
助郷は十七世紀後半頃から少しずつ制度化されていったようです。元禄七年(一六九四)に大きな編成替えがありましたが、三島宿にはそのための調査資料と思われる元禄六年の助郷の村々を書き上げた記録が残されています。図【1】
図1三島宿助郷書上帳
この帳面の内容を見てみると、はじめに恒常的に宿場の業務を補助する定助郷として三島宿から一里以内の川原谷、谷田、竹倉、中、北沢の五カ村が並び、続いて二里以内程度の八反畑、梅名、仁田など平助郷三十一カ村、三番目に四里以内程度の大仁、田京など大助郷二十九カ村中十八カ村、四番目に最大七里以上の梅木、菅引など山中筋大助郷四十七カ村、五番目に間宮、山木などの大助郷の残り十一カ村と続き、最後に助郷に指定されていない社家村(三嶋大社周辺)や沢地などが記録されています。図【2】
図2川原谷村、谷田村、竹倉村などが見える
この帳面は村の名前と宿場からの距離が列挙されただけのものですが、三島から遠い中伊豆の村々が載っている反面、三島より北の幸原や駿河国駿東郡の村々は近くても載っていないこと、下田街道で宿場と似た仕事を負担していた中島などの村や大社領のあった社家、沢地、壱町田などの村が助郷の役を免除されていた点など当時
の社会的・地理感覚を垣間見ることができます。
助郷の負担は交通量の増大とともに増えていきました。ただし、その後助郷制度が整備されるに従い、宿場からの距離を基本とする合理的な制度になっていきました。
【平成25年 広報みしま 4月1日号 掲載記事】
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