歴史の小箱
(第309号)暮らしを彩った機械たち(その2) (平成26年2月1日号)
今回は前回に続き企画展「暮らしを彩った機械たち」で展示している資料を紹介します。
今回は、「遠くと繋がる」を可能にした機械、電話を紹介します。
電話は明治九年(一八七六)、アメリカのグラハム・ベルによって発明されました。翌明治十年には日本でも実験が行われ、明治二十三年には東京・横浜で電話が使えるようになりました。
三島で電話交換業務が始まったのは明治四十一年です。当時の加入者は五十人で、役所や一部の会社にしか
ありませんでした。その後も電話の加入者は役所や事業者がほとんどで大正十二年(一九二三)の「三島局
電話番号表」を見ても、加入者三百二十六のうち個人名は六十六人しかありません。また、二回線以上をもつ加入者は伊豆銀行、三島郵便局など数えるほどで三島町役場も一回線しか持っていませんでした。
このころの電話機にはボタンやダイヤルがなく、その代わり手回し式のハンドルが付いていました。また、初期のものは話すところと聞くところが分かれていました(写真①、②)。電話をかけるときは、最初にハンドルを回します。その後、交換手につながり、相手方の電話番号を伝え電話をつないでもらいました。
写真1 壁掛け式電話 明治時代(ハンドルは外れています)
写真2卓上式電話 大正時代(受話器がひとつになっています)
戦争中に減少した加入者は戦後に飛躍的に増大し、また、交換手を通さないダイヤル化も昭和四十年ころには九割を超えます。
写真③は昭和後半に使われていたもので「黒電話」と呼ばれています。今と違い、電話はまだ一家に一台の時代だったため、子どもが友達と長電話をして怒られる、ということもありました。また、電話機には電源が必要なかった(手回し発電や電話線からの供給で済んだ)という点も現在とは異なる点です。
写真3黒電話 昭和40年代から
その後、ポケットベル、携帯電話、スマートフォンの登場と続き、一人一台電話を持つのが当たり前になりました。電話は、利用開始から百年余りを経て、暮らしの中で最も重要視される機械となっています。
【平成26年 広報みしま 2月1日号 掲載記事】
歴史の小箱(2013年度)
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