(第285号)中・鈴木家文書の調査から 江戸時代の福祉 (平成24年2月1日号)

 現代の日本では、ついに死亡率が出生率を上回る自然減の現象がみられるようになりました。  

 江戸時代、平均寿命はわかりませんが、江川家に伝わる「年賀之式」の史料に「満四十歳になると初めて寿として祝賀を行い、五八の賀(五×八=四十)といった」とあります。その後、十年ごとに「五十の賀、六十の賀、七十の賀、八十の賀、九十の賀、百の賀もあるべし、昔は上寿の人は百二十歳、中寿百歳、下寿八十歳、人生七十古今まれなりと仏説にもある」(韮山郷土史料館「江川家の行事」展示資料)と書かれています。  

 中は安永六年(一七七七)から沼津藩の領地となり、伊豆支配のための役所が置かれました。鈴木家には、沼津藩との関係を示す資料がたくさんあります。そのなかに、江戸時代の税の徴収簿である「年貢割付状」とその領収証である「年貢皆済目録」が多数あり、皆済目録は年貢の納め方を具体的に示しています。そのうちの幕末のものに、老養給付米八斗を中村に支給していることが記載されています。先述の「人生七十古今まれなり」とあること、ほかに八十歳以上を調べた書類などがあることから、おそらく八十歳以上の人に対し給付したのではないかと思われます。  

 また、慈善事業を行おうとした人がいたこともわかりました。天保九年(一八三八)に村のために土地を寄付したいと申し出た人があったのです。中・鈴木家の次男は、病身で分家して道具屋を営んでいました。結婚もせず、家を離れて両親の養育もできず心苦しかったのでしょう。天保年間はいわゆる天保の飢饉があり、多くの人 が餓死をするような状況でもありました。そのような悲惨な状況を目の当たりにして、今後の生き方と人生の終わり方を考えたのではないでしょうか。四十四歳になった時、自分の親のみならず万の親の追善のため、村の困っている人たちのために土地を寄付したいと申し出ます。さらに、それを福祉のため以外には使わないことと村 の人たちに対し認めさせています。  

 方法は、まず、自分で貯えた十両を領主である沼津藩役所に預け、十年期貸付運用の積立金をもって中村分の土地を購入します。それから、それを小作に出して、小作から上がる利益を使おうというものです。これにより「年々の田植え時期の溝川・小橋・水門等の手入れに使う切石を買うことができ、また、小百姓や水呑、長病の人、火事にあったりして困っている人の助成米にもなるもの」として、自分の死後もその地所について、もめ事が起こらないよう付け加えています。いわば遺言のようなものと考えられます。  

 郷土資料館には、多くの貴重な史料がありますので、引き続き整理を行い報告していきます。

土地を福祉のために使うことを約束した文書
285土地を福祉のために使うことを約束した文書
【平成24年 広報みしま 2月1日号 掲載記事】