歴史の小箱
(第287号)豊臣秀吉の掟書 (平成24年4月1日号)
今回、郷土資料館では、歴史資料として、「豊臣秀吉の掟書」を購入しましたので、紹介します。
豊臣秀吉の掟書
この豊臣秀吉の掟書は、天正一八年(一五九〇)に豊臣秀吉と後北条氏との間で行われた小田原合戦に際し、後北条領国下の郷や村の人々に対し、豊臣軍の行動を規制し、治安維持を保証するため発給された文書で、「還住の制札」とも呼ばれています。
書状の大きさは、縦四五センチメートル、横六五センチメートルで、秀吉の好みだったらしく、文書としては大変大きなものです。「檀紙」と呼ばれる厚手の高級和紙が用いられており、保存状態は極めて良好ですが、一部に補修された痕や変色が認められ、現状は額装となっています。
文面は「條々」に始まり、肥田郷、梅名村など、三島市中郷地区から函南町北部の村落9カ所の充所(所付け)が明記され、つづいて三箇条の条文と罰則規定、日付が記されており、最後に秀吉の朱印が押印されています。その内容は、「①庶民、百姓等は必ずこの地に戻ってきて生活する事。②軍勢、また、その他のいかなる者であっても、この土地に戻ってきて住んでいる百姓の家を奪うようなことのないようにする事。③土着の民、百姓に対して、もしも道理に合わないような言い掛かりをつける者がいれば、一銭切(戦国時代に行なわれた斬首刑の一つ)にする。また、麦などの作物を刈り取ることのないようにする事。」とあり、「もし背く者があれ
ば、速やかに処罰を加えるものである。」となっています。
戦国時代の戦いは、戦闘のみならず、村むらの放火や略奪、人さらいなどを伴う大変過酷なものでありました。このため、敵が攻めてきた場合、村人は家財を地中に埋めて隠し、領主の城に逃げ込むか、付近の裏山の森
林に小屋を造って避難したり、逃亡することが普通でした。
この掟書が発給された四月は、まだ、韮山城の籠城戦が続いていたので、田方地方の農民は耕作を放棄して避難や逃亡していたはずです。しかし、すでに二毛作である麦秋の刈り入れと、田起しの時季が迫っており、農民を帰村させ、戦後復興を図ることが現実的課題となったのでしょう。この文書からは、そうした秀吉の占領地政策が垣間見えてきます。そして、村人たちはこの掟書を入手することにより安全保障を得て、無事、帰村出来たのです。
【平成24年 広報みしま 4月1日号 掲載記事】
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